ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

インターネット家出 5.5日目――決めごと

 着地点も決めずに始めたこのインターネット家出ですが、そろそろゴールを設定したいと思い、今日決めました。まず、来る4月25日の午前8時に投稿される予約ツイートをしました。これはメインとサブの両方のアカウントで行い、それぞれのアカウントからの完全ログアウトを告知するものです。この25日午前8時をさしあたりのリミットとします。

 まず、このリミットまでの間に戻りたくなったらいつでも戻ってよいことにします。「ひかりちゃん」に関しては無条件に戻ってよく、「ひかり」に関しては漫画を完成させたら戻ってよい(漫画の完成が25日に間に合う必要はありません。戻るという決定が期限より前であればOKです)。その場合は予約ツイートを削除し、何食わぬ顔でこれまで通りツイッターを続けます。逆に戻る気が起きなかった場合、予約ツイートが問題無く投稿されているかを1度だけ確認し、それ以降は全面的にツイッターを禁止にします。

 これはめちゃくちゃ緩いルールです。戻るなら永遠に続けろなんてことは言いませんから、日和ったなら戻ればよいのです。25日の午前8時までに私が戻る気を起こさなかった場合にのみ、このルールは実行力をもちます。それなのに、何か重大な決定をしてしまった気がしました。いつでも取り消せる予約ツイートなのに、予約するときにはかなり緊張しました。それだけ心の奥底では戻らない方に傾いているということでしょうか。

 リアルの知り合いでない、ツイッターだけの付き合いの人たちに関しては、これはたしかに取り返しのつかないことです。絶縁とほぼ同じですから。しかしまあ、私のガチネトストであれば、「ひかりちゃん」のツイフィから私の本名を知り、そこから私のリサーチマップに辿り着き、某学会での発表でのスライドの中に記載されている私のメールアドレスに到達するでしょうから、私と連絡を取れなくなって絶望するようなガチネトストにとっては(もしいても)致命的な痛手ではないでしょう(というかそこまでせずともこのブログにコメントすればよいのです)。逆に、そこまでのネトストをする気の無い人々は、私と連絡をとれなくなっても絶望したりはしないでしょう。いる可能性はほぼ無いにもかかわらず私が毎回ガチネトストの人に配慮しているのは、私自身ツイッター絶縁にトラウマがあり、連絡手段を完全に無くすのはやめてほしいという思いが他の人に対してはあるからです。

 こんなルールを設定したからか、フォロワーたちとの楽しい思い出が走馬灯のように流れてきました。いやー、もう会えないのかー。悲しいですね。どうして私は、研究のこと、就職のこと、将来のことといったリアルなことで悩まず、ツイッターをやめるだのやめないだのといった変なことをずっと気にしているのでしょう。いい歳して――と言いたくなりますが、年齢ごとの「ふさわしい行動」を考えるというのはときに差別的になりうると思うので、自分に対してもそのようなことは言いません。

 まあ、あくまで今回の話は私が精神の安寧を得ることをゴールにしているということを忘れてはいけません。ツイッターをやめたことによって心が乱されては本末転倒です。今日設けた期限は、それだけの間ツイッターを離れて大丈夫そうなら戻るのをやめても大丈夫だろう、という、自分の心の動きをはかるための期間を取り決めるものです。

インターネット家出 5日目――地図を持つこと

 ぶっちゃけそろそろネタが無いです。逆に言えば脱インターネット生活に馴染んできたということでしょうか。ところでこのブログのタイトルは略して「ひかひか」だなと思ったのですが愛称としてどうですか?

 昨日も自転車に乗りました。走行距離はそれほど長くなく、10kmちょいくらいでしょうか。多摩川沿いやその付近の街道沿いをあてもなく散策していました。

 私は自宅から半径10km圏内の場所であればだいたい自転車で何度も行ったことがあるので、何となくの道や地形は頭に入っています。しかし、たぶん私は地図が読めず、地形把握や道の記憶が苦手な方で、何度も訪れた場所で迷うということをよくやります。昨日通ったルートの中にも、中学時代に迷いまくった場所がいくつかありました。さすがに今回はひどい迷い方はしませんでしたが、それでもルート決定は道に関する体系だった知識に支えられているというよりは、何度か訪れたことによる勘のようなものに基づいていました。

 帰ってから、その日辿った道のりをGoogleマップで振り返ってみました。思えば自転車に乗っていた頃の私はよくこういうことをしていました。自分の理解と合致するところも多く、そこは進歩を感じたのですが、緯度や経度、路線の配置など、自分の感覚が地図と大きく乖離しているところもありました。この駅ってこの駅よりも東なんだ、とか、この場所とこの場所は経度がほぼ同じなんだ、とか、そういう驚きがありました。私が通るような道は曲がりくねっていることも多く、何度も曲がっていると東西南北が全然分からなくなってしまいます。そのせいで、自分の体験に基づいて何となく得た地図と実際の地図が大きくずれるということがよくあるのです。

 道をちゃんと覚えるには、その道を実際に通って、体験ベースでの理解を築きつつ、後から地図を見て客観的に道同士の交差や建物の配置を整理することが必要なのでしょう(少なくとも私のような方向感覚が弱い者とっては)。このスクラップアンドビルド(?)を繰り返していく中で、自分の心の中の地図が、血の通ったものでありつつ、信頼に足る客観性も備えるはずです。

 こう書いていると何だか人生訓を語っている気になってきました。そういえば、昨日こんなことを思いました。直線の道であれば、その道を進むことで自分がどこかに近づいているというのは分かる。しかし、今回のような曲がりくねった道を右往左往しているとき、私の振る舞いは局所的に見れば迷っている人のものと変わらない。しかし、その場を行ったり来たりしているようで、最終的には私は目的地にちゃんとたどり着くのだから、やはりそこに近づいてはいるのだろう。迷っている人と、何だかんだ目的地に近づいている人の差は、地図を持っているかどうかだろう。ところで、たとえば絵の練習についても、迷走している人と、めちゃくちゃやっているようで何だかんだ上達する人とでは、そのような違いがある気がする――ここまで考えたことで、そんな雑なアナロジーを語って何になるんだと自己嫌悪して止めました。

 話はちょっと変わるのですが、私の生活圏内には、自転車でしか行かないような少し遠い場所というのが存在します。そういう場所は、自転車でしか訪れないので、車を運転する人にとっての大きな国道のような印象を私に与えます。つまり、人間が普通に歩いて暮らしているような場所ではなく、そこのメインの住人は乗り物だという感覚です。しかし、国道と違って、私が自転車で行くような場所は住宅街に隣接していたりします。私にとって自転車でしか行かないというだけで、そこの住人にとってみれば、私の自宅まわりが私にとってそうであるように、そこは徒歩の世界です。このギャップが、頭では理解できるのだけど、何だか不思議だなあと昔ずっと思っていたということを昨日思い出しました。

インターネット家出 4日目――自転車

 別に毎日更新という企画ではないのですが、ツイッターをやらずに1日を過ごすと、インターネットに言葉を発信するタイミングが圧倒的に減るため、ブログに書くようなネタも蓄積されやすいようです。でもすぐに途切れ途切れになるでしょう。

 昨日の記事

自転車で遠くに行ったことを誰にも語らず、ブログにも書かないとか、そういうことが大事なのではないか

などと言ったにもかかわらず、という話なのですが、昨日は久しぶりに20kmくらい自転車でうろうろしていました。私はもともと自転車によく乗る方で、詳しくはこちらの記事にも書きましたが、そういう習慣の無い人にはちょっとびっくりされるくらい遠くまで、スポーツタイプでもない普通の自転車で出かけていました。それが特にこの1年かなり乗る機会が減っていました。ひとつにはCOVID-19の影響で家にこもりごちになった結果の運動不足を解消すべく、長時間の散歩をするようになったからです。もうひとつの理由としては、自転車はスマホと相性が悪いというのがあります。

 歩きスマホをするわけではないにせよ、歩いているときにスマホを確認することは容易です。ちょっと立ち止まってポケットからスマホを出せばよいのです。他方で、これを自転車でやるのは結構手間です。まず、自転車において止まるというのはそれなりに準備を必要とするアクションですし、人の邪魔にならないような場所取りにも気を遣います。さらに、私は自転車に乗るときは安全のためスマホを完全にバッグにしまっているので、取り出すのもちょっと手間です。いい位置に止まってスマホを取り出せたとして、完全に降りずにサドルに腰かけた状態でスマホを操作するのは、姿勢が不安定で何かと危険であり、あまり快適ではありません。そういうわけで、当たり前ですが、自転車に乗っている時間が長いと、スマホを操作する機会は減ります。休憩のために寄ったコンビニの前で、買った飲み物を口にしつつ少しだけチェックする、といった感じになります。

 もともと私は10年前の古いスマホを使っていたので、動作も遅いし、たいていのアプリ(ツイッター含む)は使えないしで、2019年付近は外でスマホを娯楽目的で使うといったことがほぼありませんでした。それが去年最新機種のひとつを手に入れ、スマホでかなり色々なことができるようになり、出先でツイッターをチェックすることも増えました。散歩のときなどは自分のツイートへの反応を待ちながら歩いているような面もあったわけです。こうした楽しみ方に自転車は不向きでした。

 それが、もうツイッターを見る必要もないので、再び自転車に乗ろうかという気になりました。自転車だと当然徒歩では行けないような遠くまで行けます。また、健康のための運動という点でも、散歩に筋トレ効果はほぼ無いのに対し、自転車は若干脚のトレーニングになるらしいです。ここのところ春ですし、ちょいちょい昔のように自転車で遠出しようかなと思います。

 昨日は桜が植わっている小川沿いを走って、自宅から10kmと少しくらい離れたイオンモールに行ってきました。今回はそれほど長旅でもありませんが、自転車で遠くに行くときは私はちょくちょく給水スポット的な感覚でコンビニに立ち寄ります。以前奥多摩に行ったときなどは、コンビニでのスポーツドリンクの補充が必須でした。今回はそんなにハードな行程ではなかったものの、1時間ほど自転車を漕いだ後のキリートレモンは美味しかったです。

 直接的には睡眠障害への対策として始めたインターネット脱出計画ですが、昨晩は9時間も眠れたようです(何となくだるさは残っていますが)。今のところ功を奏していると考えてよさそうですね。2日目の記事で述べたフィクション断ちについてはしばらくしたら解禁してもよい気がしています。ただ、今のところそもそもフィクションを鑑賞したい欲求が無いのでそのままにしています。

インターネット家出 3日目――黙って生きよ!

 ツイッターをログアウトしてから2日が経ちました。なんか思ったより全然時間経ってないですね。自分としてはもう1週間くらいツイッターにいない気持ちなのですが、2日ツイートしないなんてライトユーザーからすれば普通です。「もうログアウトしてからそんなに経つのか」と思える日が来ることを願います。

 唐突ですが、私は物心ついたときから表現、express的なことをずっとやっていました。小学生のときは漫画や絵を描いたり、ツクール製のRPGを作ったりしていました。中学に上がると、漫画に加え、小説やポエーーム的なものも書くようになりました。作曲も始めました。高校でも小説的なものを書き、曲を作っていました。浪人時代にはアニメ感想ブログをやっていました。人には見せられない内面的な日記もつけ始めました。大学に入ってからは、それまでの創作的なことに加え、ツイッターに思ったことを書いたり、自分の思索を手元のメモにまとめたりしていました。そして今もこうしてブログを書いています。基本的に私は多弁なのです。

 ツイッターをやめてみると、思いついたことをすぐに表現できなくなりました。たとえば私は本を読んでいて分からないことがあるとすぐにツイッターに(その文脈が分かる人なんていないことの方が多いにもかかわらず)疑問点を書いていましたが、今はそういう細々した思念は私の心の中にだけ沈殿していきます。連動して、もともと創作アカウントでもあったサブアカウントをやめたことによって、漫画や絵も描かなくなりました。そうすると何だか創作的なこと全般から足を洗った方が良いような気がしてきて、小説的なものも書かなくなり、曲も作らなくなりました(これらはもともと頻度が高い方ではありませんでしたが)。今では1日の中で考えた色々なことごとのうち、ある程度はっきりした形をとるようになったことどもをこのブログや日記にある程度まとまった文章の形で書いているだけです。

 こうした変化を体験するにつれ、表現が日常ではないような人生とはどのようなものなのだろうと思うようになりました。別に私は創作家でも何でもなく、ただちょっとインターネット上でお喋りなだけの人だったわけですが、世の中にはSNSもやらず、絵も描かず、普段の生活においてまとまった文章を書く機会もほとんど無いような人々がたくさんいます。そのような人生の過ごし方をしたことがほとんど無かったため、それがどのような過ごし方なのかもはや分からないのですが、しかしそうした暮らしに何か粛々とした、清い印象を受けるようになりました。

 表現は何かの表現であり、私たちは表現をする前にそのもとになるような人生を生きているわけです。表現ばかりしていると、そのもとの人生が後景に退くのではないか、そうした思いが最近湧いてきました。何も語らずにただ道を歩くとか、自転車で遠くに行ったことを誰にも語らず、ブログにも書かないとか、そういうことが大事なのではないかという漠然とした思いがあります。創作や執筆の元ネタではなく、ただ生きられた生のようなもの、表現されない生が、今までの私の人生においてはないがしろにされてきたのではないか。確信ではありませんが、そういう疑念があります。

 現在もこうした記事を書いている時点で十分に多弁です。ただ、私はインターネットから退けば1日のうち1人で過ごしている時間が圧倒的に長いわけで、インターネット撤退戦が完了したらそのときにはだいぶ寡黙になる気がします。黙って生きよ! これは間違った理想である気もしますが、そういう道もあるよなあという思いが段々強くなってきています。

インターネット家出 2日目――フィクション的なもの

 普段使いのツイッターアカウントからログアウトして丸1日が経ちました。メインの感想としては「家にいても特にやることないな」という感じでした。私は本来おうち大好き人間で、1日2日外出しないなどは余裕なのですが、暇な時間にはPCのブラウザのタブのひとつでツイッターを開きながら、適当にYouTubeニコニコ動画を巡回して過ごしていたわけです。このツイッターや動画サイトから遠ざかったため、家でやる暇つぶしのバリエーションが圧倒的に減りました。1日目の記事をお読みになった方は「ツイッターをやめるという話ではなかったのか。なぜ動画サイトからも遠ざかっているのか」と思われたかもしれません。これについてはおいおい説明していきます。

 昨日はやることも無かったので自転車でぶらぶらして、国分寺跡に行ったり、オーガニックカフェ的なところでオーガニックな(とは?)フードを食べたりしていました。長時間自転車に乗ったり歩いたりしていたので、その間に色々なことを考えました。

 そんな中、悪さをしているのはフィクション的なものであると特徴づけられるのでは、という考えが浮かびました。出インターネットの前日談で私は自分の心の強さと弱さの極端さについて述べました。普段の私はストレスやプレッシャーへの対処法について知っており、自分を制御できるが、ツイッター上でのインターネット人格が絡むと、本当に何でもないようなことで激しく動揺してしまうという話でした。あれはさらに拡張して、フィクション的なものに没入しているときには私の精神状態は異常に不安定になるといえるのかもしれません。

 私はもともとフィクション的なもの(ふつうにアニメとか漫画とかゲームです)に没入しやすく、読んでいた漫画の展開が実生活(とは?)に影響を与えるようなこともありました。ただまあそういう普通のフィクションに関しては、あくまでお話はお話ということで、今回のような深刻な状態になるようなことはほとんどありませんでした。たちが悪いのはリアルを巻き込んだ虚構です。ツイッターは私にとってはフィクションの世界です。いわゆる創作ではないけれど、ツイッター上の私はひとつのキャラクターであり、周囲のアカウントは――そのアカウント運営者の自己認識がどのようなものであれ――そのフィクション上の登場人物です。リアルの設定を色濃く反映したおままごとというのが一番近いでしょう。この「リアルの設定を色濃く反映」というのが曲者で、ツイッターにおける「ひかり」というのは第一に虚構名で、ひかりという実在しないキャラクターを指すわけですが(ゆえに名前でないと言う人もいるかもしれません)、第二にそれは私を指示する名前でもあります。この虚構とリアルが混ざったフィールドにおいては実存の危機が生まれやすいというわけです(思えば浪人の記事で仄めかした「実存の危機」も、インターネット関連ではありませんが、リアルとフィクションの絡み合いのような事例におけるものでした)。

 「エモい」という最近の言葉がありますが、このエモさやエモーション的なものにはだいたいフィクションが関わっていると言ってよいのではないでしょうか。逆に言うと、フィクション的な要素が無ければ人の心はそんなに揺さぶられないのでは、ということです。人が感動するのはだいたい物語を鑑賞したときです。映画や漫画といった真正のフィクションでなくても、たとえば文化祭とか、部活の試合とか、リアルにおける感動的な場面にもフィクション的なものはつきまとっていると思います。自分たちが物語の中にいるという感覚、文化祭の終わりや試合での敗北はそうした物語におけるドラマティックな場面であるという感覚が、些細なことでは涙を流さないような年齢の人たちにも涙を流させるのではないでしょうか。こうした雑考察が通るとすれば、フィクション的なものには、普段の生活においては考えられないような感情のインフレを呼び起こす力があるということになりそうです。

 上に挙げた文化祭というのはリアルとフィクション的なものが絡み合っている例でしたが、私自身はそういった青春ドラマみたいなやつは醒めた目で見ていた方で、私にとってのエモーショナルなリアルフィクションというのはツイッターとかエトセトラだったわけです。私はそこで日常空間ではちょっと浮いてしまうようなロールを演じ、しかしそれはそう遠くない仕方でリアルにも結びついており、ツイッターでの達成が保体の教科書に載っているような意味での自己実現であり……、といった具合です。分からない人には全く分からない感覚だと思いますが、文化祭で実行委員長というロールに没入して真剣に悩んだり涙を流したりしている熱血高校生と似たようなものだと考えていただければOKです。

 というわけで、自分でもちょっと過剰な気はするのですが、私は今回フィクションがもつこの感情を揺さぶる力を恐れて、ツイッターだけではなく、漫画やアニメといった普通のフィクションからも距離を置くことにしました。また、私がニコニコ動画で巡回していたメインコンテンツはVTuberの切り抜き動画で、VTuberというのはまさにリアルフィクションないまぜの世界なので、かなり警戒して遠ざかることにしました。漫画を頭ごなしに禁止するダメな親のようですが、私は人生のほとんどの時間をフィクションにまみれて過ごしてきたため、この選択には重みがあります。

 これで冒頭の疑問に一応答えたことになります。フィクション的な要素が強いような動画はなるべく観ないようにしているわけです。逆に、フィクション色があまり強くない動画は普通に観ています(たとえばSeikinTVの最新動画)。

 自分の心の動きを観察するという目的からすれば、このように多数のパラメータを一気に動かすことは望ましくありません。ツイッターをやめる以外の生活習慣は固定して、ツイッターをやめたことによる効果にだけ注目できるようにすべきです。しかし、今回はそのような観察以前に、睡眠障害がヤバいという話から始まっているので、緊急的な措置としてこのようになっています。さしあたり8時間眠れるようになりました。健康な生活をある程度無理やりにでも取り戻すことが最優先です。これが安定してきたら、ツイッター以外のところは徐々に元の生活に戻してもよいかもしれません。上のSeikinTVの動画はカフェインの離脱症状に関するものですが、それまでの習慣を突然変えるというのはやはり何か身体に毒なことである気はするので。

 今まで暇つぶしに使っていたメインコンテンツからことごとく遠ざかったので、家にひとりでいる時間などの過ごし方を考え直す必要もありそうです。前回言っていた、とりあえず根無し草になってその後に移住先を見つけるという話ですね。文学でも読もうかと思いましたが、文学はフィクション色が強いのでナシです。今のところ思いつくのは部屋の掃除とかですね。

インターネット家出 1日目

 こんにちは。ひかりです。この度、普段よく使っているふたつのツイッターアカウントからログアウトし、ブラウザのブックマークバーからツイッターを削除しました。これはこれから徐々に行っていくインターネット脱出計画の最初の段階にあたります。今日はこのインターネット脱出計画についてお話します。

 前回の記事でインターネットを脱出する必要性については述べました。要約すると、私はツイッターをやると異常精神状態に陥りがちで、インターネットから距離を置く必要がありそうという話です。あのときは漠然と「良くないよな~」と思っていたくらいだったのですが、今回もうちょっと事態が深刻化したので報告します。

 一言で言うと睡眠障害っぽくなりました。生活リズムが昼夜逆転とかいったレベルでなくめちゃくちゃになり、短時間しか眠れず、眠っても疲れがとれず、日中は常に眠いといった調子です。さすがにまずいぞと思って、なるべく長い間起きて疲れをためて一気に寝る作戦に出たのですが、それもむなしく、2時間くらいして胸の圧迫感・息苦しさを感じ、動悸がおさまらず血の気が引く感じになって目が覚め、眠れなくなりました。今はそういった最悪の目覚めの翌日なのですが、あれから頑張って行動をコントロールし、久しぶりにまともな時間帯に8時間睡眠がとれ、何とか持ち直した感じです。しかし昨日のあれはヤバすぎるので何とか手を打ちたいと思います。

 なぜこんなことになったかというと、個人的に先週あたりは研究関連の締め切りをいくつか抱えていて、単純に忙しく、そのせいで睡眠に関して色々と乱れていたというのがまずはあります。それに加え、前回の記事で解説した、インターネット人格の傷つきやすさがあり、再び異常精神状態に陥りました。異常精神状態に至るまでの経緯はかなり説明しづらく、ツイッター上の人間関係で悩むとかそういう分かりやすい感じではないんですよね。というかツイッター上では何も起きていません。人間関係のトラブルも起きてないし、フォロワーとのやり取りも別に多くありません。ただ、何事もないタイムラインを見ていて異常不安に襲われるのです。まあそれで、ハードスケジュールの疲労とインターネット人格の脆弱性がオーバーラップして見事上に述べたような睡眠障害的症状が出来上がりました。

 前回の記事で「インターネットの彼方へ」ということを述べましたが、あのときはインターネットからの移住先について考えていました。インターネットではないいい感じのルーティンを見つけて、それでやっていけそうだなという気持ちが強くなったら、徐々にインターネット成分を薄め、段階的移住を試みる予定でした。しかしそんな悠長なことを言っている場合ではないのでは、という気になり、とりあえずツイッターログアウトという手に出たわけです。さしあたりは放浪の身になってもよい。むしろインターネットに根を下ろしていては目に入ってこない移住先もあるかもしれない。というわけで私はインターネットから半分足を洗うことにしました。

 まず、昨日サブアカウントの方からログアウトしました。それで1日過ごして、だいぶ調子が良いぞということになり、しかしメインアカウントを見ていても、サブアカウントほどではないにせよ、異常精神状態っぽくなりそうな気配を感じたので、こちらからもログアウトしようと決めたのがついさっきです。とりあえずこれで「ツイッターといっしょ」じゃない生活を開始してみようと思います。ちなみに、なぜアカウント削除を考慮に入れないのかというと、そこまで思い切りが良くないというのもありますが、基本的には、可能的に存在する私のファンへの配慮です。

 そうして現在ブログを書くに至るわけですが、この状態は以前の記事でお話しした浪人時代に似ています。あの頃私はSNSなんてひとつもやっていなくて、LINEもやっておらず(まあ当時LINEは出たばかりでしたが)、リアルの交友関係も非常に狭くて、ルーティンとしてはニコニコ動画を観てたまにブログを書くといった感じでした。当時は受験というプレッシャーがあったので、それはそれで穏やかな精神状態ではなかったのですが、その点を除けば結構いい感じだった気がします。とりあえずあの頃に戻るというのを方針とします。

インターネットの彼方へ

 こんにちは。ひかりです。最近インターネットに関して異常な精神状態を経験したので報告します。

 まず、ネットをやっていると動悸がして落ち着きません。謎の焦燥感があります。これはツイッターをやっているときでも、YouTubeを観ているときでもそうです。さらに、よく分からない被害意識があります。たとえばYouTubeを開くと色々な動画のサムネがこっちを見ていますが、そう、こっちを見ていますが、その目線が私を攻撃しているようなのです。YouTubeでよくある大げさな表情とか、クソデカ文字とか、ああいうのが全部自分を攻撃しているように思えます。YouTubeに限らず、ニコニコ動画とか、ニュースサイトとかも同じです。ツイッターもそうです。タイムラインが更新されて人のツイートが目に入ると恐怖に近い感情を覚えます。また、自分がツイートして反応が無いと、そのツイートを全員に非難されているような気がします。被害妄想といっても、具体的に誰々がこういう策謀で私を陥れようとしている的な陰謀論があるわけではなく、ただ漠然と攻撃されているような気分になるのです。その他、アニメっぽい絵を見ると焦りのような恐怖のような感情を抱いたり(これはインターネットでなくてもそうです。たとえば書店)、他の人のツイートのいいねやリツイートの数を直視できなかったりなどがあります。

 こうして文字起こししてみると結構やべぇなと自分で思うのですが、問題はどうしてこうなったのかです。おそらくこれにはツイッターが深く関係しています。私のメインのアカウント(@hikari_skrkw)はリアルの知人もネットの知人も混ざった、話題も統一されていない雑多なアカウントで、まあかなりルーズな運営がされているのですが、これのほかに私はいくつかアカウントをもっています。そして、私はサブアカウントの作成をキャラメイクに類比的なものとして捉えている節があります。ツイッターでの名前、ID、アイコン、ヘッダ画像などを念入りに準備し、リアル?の自分とは幾分違ったキャラを設定します。まあロールプレイとかなりきりとかではなく、あくまで、ネット弁慶みたいな感じでしょうか、インターネットなのでちょっとキャラ作って楽しもうみたいなノリです。高校デビューとか大学デビューとか言ったら分かりやすいですかね。自分のリアルの容姿も身分もそれまでのキャラも何も知らない人たちのところでちょっと新しい自分を作ってみよう的な。形は違えどそういうことをやってみようと思ったことのある方は少なくないんじゃないですか。まあ私はそれをツイッターアカウントを中心に割と頻繁にやるんですね。ちなみにメインアカウントの方も程度の差はあれそういうキャラ作り要素があります。そもそも「ひかりちゃん」自体それ的な経緯から生まれたキャラですからね。

 で、こうしたツイッター運営が何か私の精神に良くない影響を与えている気がします。まず、私自身が結構没入しちゃうタイプというか、インターネット人格が憑依?する感じなんですよね。脱自というか。自分がここにいないという感覚、本当にタイムライン上に存在しているみたいな。また、テレワーク中心の生活でインターネットの存在感が増しているというのもあるのでしょう。インターネットはスキマ時間にちょっと確認するといったものではもはやなく、そこに住んでいるというか、私の暮らしはそこにあって、そこでの出来事はリアルに劣らず重大だ、という感じ。いわゆるネット廃人みたいな感じではないです。いや、実際インターネット従事時間は長いのかもしれませんが、そういうことではなく、なんかインターネット上の些細なことも自分にとって重要な意味をもっているように思えてくるみたいなことです。

 この没入がどうまずいのかというと、なんか自分を制御できなくなるんですよね。リアルの私ははっきり言って心がめちゃくちゃ強くて、プレッシャーとかストレスにも耐えられがちだし、多少嫌なことや落ち込むことがあってもそういうときの対処法を知っていて、まあ自分の機嫌をとるのがうまいわけです。ところがインターネット人格の方になるとマジで些細なことで動揺しちゃうんですよね。で、これには、自分のことじゃないから重大、みたいな面があって、なんでしょう、自分が傷ついたり評判落としたりする分にはいいけどこの人がそうなるのはちょっと……ってことあるじゃないですか、それを自分のインターネット人格に対して思っている感じです。リアルの自分は傷つきなれているのだが、インターネット人格の名声に傷がつくみたいなのは割と耐え難い。一言で言えばインターネット人格は傷つきやすいということです。

 というわけで、私はインターネット人格になると防御力が途端に落ちて、普段の自分では考えられないような些細なことに揺さぶられて、そういうダメージが蓄積されていくと冒頭に書いたような異常精神状態を経験するっていうのが大まかな構図じゃないかなと思ってます。インターネット人格にとってインターネットは自分が住んでいる世界なので、その世界のあらゆるものが攻撃的に見えるというのは、まあ超繊細でインターネットの至る所で袖を引っかけて傷ついてしまう人格にとっては、仕方の無いことなのかもしれません。

 じゃあインターネットおままごとをやめるべきでは? という話になるかもしれません。昔冗談で、インターネットおままごとにしか生きがいを感じられないというようなことを述べたのですが、まあ正直インターネットおままごとは実存の問題でも何でもなく、なんかやりたくなっちゃってるバグ的なものだって認識はあるんですよね。私にインターネットをもたせると何か悪い方にインターネット人形遊びを始めるので、私語が多い生徒同士の机を話すように、私とインターネットの付き合い方も考えた方が良いのかもしれません。いやはや謎ですね。もうちょい若い頃というか多感な時期にこういう感じになるのはまだ分かるのですが、年を経るにつれて人形人格に振り回されることが多くなっている気がします。

 というわけで記事タイトルの「インターネットの彼方へ」ということなんですが、インターネットの彼方ってどこですかね? やっぱフェイスツーフェイスだってことじゃないんですよ。コミュニケーションに飢えてるわけじゃないし。人間関係のあり方の模索が問題なのではない(私はそれに関しては上手くやっていると思う)。自分が普段いる場所とかルーティンの問題なんですよね。さようなら、インターネット。ここは私のいるべき場所じゃない。ではどこへ? 誰か教えてください。