ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

インターネット家出 2日目――フィクション的なもの

 普段使いのツイッターアカウントからログアウトして丸1日が経ちました。メインの感想としては「家にいても特にやることないな」という感じでした。私は本来おうち大好き人間で、1日2日外出しないなどは余裕なのですが、暇な時間にはPCのブラウザのタブのひとつでツイッターを開きながら、適当にYouTubeニコニコ動画を巡回して過ごしていたわけです。このツイッターや動画サイトから遠ざかったため、家でやる暇つぶしのバリエーションが圧倒的に減りました。1日目の記事をお読みになった方は「ツイッターをやめるという話ではなかったのか。なぜ動画サイトからも遠ざかっているのか」と思われたかもしれません。これについてはおいおい説明していきます。

 昨日はやることも無かったので自転車でぶらぶらして、国分寺跡に行ったり、オーガニックカフェ的なところでオーガニックな(とは?)フードを食べたりしていました。長時間自転車に乗ったり歩いたりしていたので、その間に色々なことを考えました。

 そんな中、悪さをしているのはフィクション的なものであると特徴づけられるのでは、という考えが浮かびました。出インターネットの前日談で私は自分の心の強さと弱さの極端さについて述べました。普段の私はストレスやプレッシャーへの対処法について知っており、自分を制御できるが、ツイッター上でのインターネット人格が絡むと、本当に何でもないようなことで激しく動揺してしまうという話でした。あれはさらに拡張して、フィクション的なものに没入しているときには私の精神状態は異常に不安定になるといえるのかもしれません。

 私はもともとフィクション的なもの(ふつうにアニメとか漫画とかゲームです)に没入しやすく、読んでいた漫画の展開が実生活(とは?)に影響を与えるようなこともありました。ただまあそういう普通のフィクションに関しては、あくまでお話はお話ということで、今回のような深刻な状態になるようなことはほとんどありませんでした。たちが悪いのはリアルを巻き込んだ虚構です。ツイッターは私にとってはフィクションの世界です。いわゆる創作ではないけれど、ツイッター上の私はひとつのキャラクターであり、周囲のアカウントは――そのアカウント運営者の自己認識がどのようなものであれ――そのフィクション上の登場人物です。リアルの設定を色濃く反映したおままごとというのが一番近いでしょう。この「リアルの設定を色濃く反映」というのが曲者で、ツイッターにおける「ひかり」というのは第一に虚構名で、ひかりという実在しないキャラクターを指すわけですが(ゆえに名前でないと言う人もいるかもしれません)、第二にそれは私を指示する名前でもあります。この虚構とリアルが混ざったフィールドにおいては実存の危機が生まれやすいというわけです(思えば浪人の記事で仄めかした「実存の危機」も、インターネット関連ではありませんが、リアルとフィクションの絡み合いのような事例におけるものでした)。

 「エモい」という最近の言葉がありますが、このエモさやエモーション的なものにはだいたいフィクションが関わっていると言ってよいのではないでしょうか。逆に言うと、フィクション的な要素が無ければ人の心はそんなに揺さぶられないのでは、ということです。人が感動するのはだいたい物語を鑑賞したときです。映画や漫画といった真正のフィクションでなくても、たとえば文化祭とか、部活の試合とか、リアルにおける感動的な場面にもフィクション的なものはつきまとっていると思います。自分たちが物語の中にいるという感覚、文化祭の終わりや試合での敗北はそうした物語におけるドラマティックな場面であるという感覚が、些細なことでは涙を流さないような年齢の人たちにも涙を流させるのではないでしょうか。こうした雑考察が通るとすれば、フィクション的なものには、普段の生活においては考えられないような感情のインフレを呼び起こす力があるということになりそうです。

 上に挙げた文化祭というのはリアルとフィクション的なものが絡み合っている例でしたが、私自身はそういった青春ドラマみたいなやつは醒めた目で見ていた方で、私にとってのエモーショナルなリアルフィクションというのはツイッターとかエトセトラだったわけです。私はそこで日常空間ではちょっと浮いてしまうようなロールを演じ、しかしそれはそう遠くない仕方でリアルにも結びついており、ツイッターでの達成が保体の教科書に載っているような意味での自己実現であり……、といった具合です。分からない人には全く分からない感覚だと思いますが、文化祭で実行委員長というロールに没入して真剣に悩んだり涙を流したりしている熱血高校生と似たようなものだと考えていただければOKです。

 というわけで、自分でもちょっと過剰な気はするのですが、私は今回フィクションがもつこの感情を揺さぶる力を恐れて、ツイッターだけではなく、漫画やアニメといった普通のフィクションからも距離を置くことにしました。また、私がニコニコ動画で巡回していたメインコンテンツはVTuberの切り抜き動画で、VTuberというのはまさにリアルフィクションないまぜの世界なので、かなり警戒して遠ざかることにしました。漫画を頭ごなしに禁止するダメな親のようですが、私は人生のほとんどの時間をフィクションにまみれて過ごしてきたため、この選択には重みがあります。

 これで冒頭の疑問に一応答えたことになります。フィクション的な要素が強いような動画はなるべく観ないようにしているわけです。逆に、フィクション色があまり強くない動画は普通に観ています(たとえばSeikinTVの最新動画)。

 自分の心の動きを観察するという目的からすれば、このように多数のパラメータを一気に動かすことは望ましくありません。ツイッターをやめる以外の生活習慣は固定して、ツイッターをやめたことによる効果にだけ注目できるようにすべきです。しかし、今回はそのような観察以前に、睡眠障害がヤバいという話から始まっているので、緊急的な措置としてこのようになっています。さしあたり8時間眠れるようになりました。健康な生活をある程度無理やりにでも取り戻すことが最優先です。これが安定してきたら、ツイッター以外のところは徐々に元の生活に戻してもよいかもしれません。上のSeikinTVの動画はカフェインの離脱症状に関するものですが、それまでの習慣を突然変えるというのはやはり何か身体に毒なことである気はするので。

 今まで暇つぶしに使っていたメインコンテンツからことごとく遠ざかったので、家にひとりでいる時間などの過ごし方を考え直す必要もありそうです。前回言っていた、とりあえず根無し草になってその後に移住先を見つけるという話ですね。文学でも読もうかと思いましたが、文学はフィクション色が強いのでナシです。今のところ思いつくのは部屋の掃除とかですね。