ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

インターネット家出 5日目――地図を持つこと

 ぶっちゃけそろそろネタが無いです。逆に言えば脱インターネット生活に馴染んできたということでしょうか。ところでこのブログのタイトルは略して「ひかひか」だなと思ったのですが愛称としてどうですか?

 昨日も自転車に乗りました。走行距離はそれほど長くなく、10kmちょいくらいでしょうか。多摩川沿いやその付近の街道沿いをあてもなく散策していました。

 私は自宅から半径10km圏内の場所であればだいたい自転車で何度も行ったことがあるので、何となくの道や地形は頭に入っています。しかし、たぶん私は地図が読めず、地形把握や道の記憶が苦手な方で、何度も訪れた場所で迷うということをよくやります。昨日通ったルートの中にも、中学時代に迷いまくった場所がいくつかありました。さすがに今回はひどい迷い方はしませんでしたが、それでもルート決定は道に関する体系だった知識に支えられているというよりは、何度か訪れたことによる勘のようなものに基づいていました。

 帰ってから、その日辿った道のりをGoogleマップで振り返ってみました。思えば自転車に乗っていた頃の私はよくこういうことをしていました。自分の理解と合致するところも多く、そこは進歩を感じたのですが、緯度や経度、路線の配置など、自分の感覚が地図と大きく乖離しているところもありました。この駅ってこの駅よりも東なんだ、とか、この場所とこの場所は経度がほぼ同じなんだ、とか、そういう驚きがありました。私が通るような道は曲がりくねっていることも多く、何度も曲がっていると東西南北が全然分からなくなってしまいます。そのせいで、自分の体験に基づいて何となく得た地図と実際の地図が大きくずれるということがよくあるのです。

 道をちゃんと覚えるには、その道を実際に通って、体験ベースでの理解を築きつつ、後から地図を見て客観的に道同士の交差や建物の配置を整理することが必要なのでしょう(少なくとも私のような方向感覚が弱い者とっては)。このスクラップアンドビルド(?)を繰り返していく中で、自分の心の中の地図が、血の通ったものでありつつ、信頼に足る客観性も備えるはずです。

 こう書いていると何だか人生訓を語っている気になってきました。そういえば、昨日こんなことを思いました。直線の道であれば、その道を進むことで自分がどこかに近づいているというのは分かる。しかし、今回のような曲がりくねった道を右往左往しているとき、私の振る舞いは局所的に見れば迷っている人のものと変わらない。しかし、その場を行ったり来たりしているようで、最終的には私は目的地にちゃんとたどり着くのだから、やはりそこに近づいてはいるのだろう。迷っている人と、何だかんだ目的地に近づいている人の差は、地図を持っているかどうかだろう。ところで、たとえば絵の練習についても、迷走している人と、めちゃくちゃやっているようで何だかんだ上達する人とでは、そのような違いがある気がする――ここまで考えたことで、そんな雑なアナロジーを語って何になるんだと自己嫌悪して止めました。

 話はちょっと変わるのですが、私の生活圏内には、自転車でしか行かないような少し遠い場所というのが存在します。そういう場所は、自転車でしか訪れないので、車を運転する人にとっての大きな国道のような印象を私に与えます。つまり、人間が普通に歩いて暮らしているような場所ではなく、そこのメインの住人は乗り物だという感覚です。しかし、国道と違って、私が自転車で行くような場所は住宅街に隣接していたりします。私にとって自転車でしか行かないというだけで、そこの住人にとってみれば、私の自宅まわりが私にとってそうであるように、そこは徒歩の世界です。このギャップが、頭では理解できるのだけど、何だか不思議だなあと昔ずっと思っていたということを昨日思い出しました。