ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

浪人時代の記録

 私は出身大学に入るのに1年浪人しています。予備校には行かず、通信教育のみのいわゆる宅浪でした。浪人時代はつらく苦しい時でしたが、自分にとって何か大切な時期であった気もするので、記憶が無くならないうちに当時のことを記録しておこうと思います。

 私の浪人時代は自動車教習所に通っていた頃に始まりました。現役の受験が終わるや否や自動車学校に入り、大学に落ちたことを知ったのが3月で、自動車免許を取得したのが5月の頭です。合宿とかではなく通いでダラダラやっていたので割と時間がかかってしまいました。地元の浪人仲間ふたりと通っていたのですが、ふたりはATで私だけMTだったので、どんどん置いていかれ、焦ったことを覚えています。ちなみに教習所の待合室には『ジョジョ』の原作が第6部まで置いてあり、それを待ち時間に読むことで『ジョジョ』デビューしました。

 そんなわけで、免許を取得した5月あたりからようやく落ち着いて受験勉強に取り組めるようになりました。「免許を取った後しばらく運転を続けると、のちにペーパードライバーになってもすぐに勘を取り戻せるようになる」という本当かどうかよく分からない話を聞いたので、運転の習慣はつけたいと思い、両親が出勤する際のドライバーをやることにしました。うちは当時自営で、仕事場にそれなりの個人用スペースがあったので、そこを借りて勉強していました。この頃はまだ浪人生活が始まったばかりということで、気楽でした。

 ドライバーをやることで生活リズムもそれなりに安定し、両親の職場で集中して勉強できて、万事順調なようでしたが、ここで事件が起こります。ある日私は前日夜更かししたので父にドライバーを変わってもらうことにしました。そしてこの父の運転する車が、色々まずいと思うので詳細は伏せますが、事故を起こしました。私と母は無事でしたが、父はこれで腰の骨を折りました。事故現場は職場に近かったので、私が運転を代わり、父は職場の自室で寝たきりになってしまいました。

 この日から、母は職場で父の介護、私は実家でひとり暮らし&職場に通って生活物資を送り届けるといった生活が始まりました。両親の仕事も完全にストップしてしまったので、私はバイトを始めるべきではとか、受験をやめて就職すべきでは、などと色々考えました。結局そういう選択はとりませんでしたが。ちなみにこの頃、ひとり暮らしが寂しいので地元の浪人フレンズを家に泊めて夜通し「マリオテニス64」をやるなどしました。浪人時代の私は「マリオテニス64」とオセロにハマっていました。

 『テニスの王子様』にハマったのもこのあたりだった気がしています。職場に布団などを届ける道すがら見かけたブックオフで『テニプリ』を買ったのを覚えています。また、UFOキャッチャーで取ったデュエマのカードをブックオフに売った思い出もあります。ブックオフにものを売るにはプロフィールっぽいものを書かねばならないのですが、このとき職業欄に「無職」と書くしかなくて、「無職かあ」と思いました。ちなみにカードは5枚全部売って10円でした。

 父は本当に動けなかったので、しばらくは職場で寝ていましたが、じきに介護病院へ移りました。事故で保険も下りることになり、ひと安心です(以降、この年は保険金暮らしになります)。父は病院に任せ、私と母のふたり暮らしになりました。ちなみにこの頃スカイツリーが完成し、私は登りはしなかったものの麓(?)まで行きました。

 ところで私には「まどマギ」以降、クールごとにアニメを観る習慣ができていました。宅浪は24時間フリーだったので、ニコニコ動画の配信を通じてアニメを観まくりました。浪人時代に大きくハマったアニメは「人類は衰退しました」と「THE UNLIMITED 兵部京介」です。前者に関しては小説の読めない私が珍しく原作ライトノベルを読むくらいハマりました。後者に関しては後述します。アニメをたくさん観ており、人間との交流がほぼゼロだった穴を埋めたいというのもあって、アニメの感想ブログを開設しました。自分なりに結構力を入れて記事を書いて、コメントしてくれる常連さんもできて、ツイッターでもたまに言及されていたようで(当時はツイッターをやっていなかったのでエゴサの仕方をよく分かっていませんでした)、自分がインターネットで発信してきたコンテンツの中では比較的たくさん反応をもらえた方でした。人の感想記事も積極的に読んでいて、感想文って良いものだなあとこのあたりで思うようになりました。

 アニメを観たり、浪人フレンズと公園でテニスをしたり、片道30分自転車を飛ばしてテニスの壁打ちに行ったり、幼少期過ごした街を訪れたり、色々遊んでいたので、勉強時間は割と少なかったと思います。夏の摸試は結構判定がひどかったはず。このあたりで焦りも出てきて、あと、ここには書けない実存的な危機もあり、精神的に不安定になってきます。

 そういえば父は退院し、家に介護用ベッドが運び込まれ、自宅介護ということになりました。たまに病院で診てもらう必要があったので、私がドライバーをやって、高速道路を通って通院していました。

 もともとは両親の職場で勉強するプランでしたが、それができなくなったので、私は勉強場所を色々探しました。鉄板の図書館も利用しましたし、これまた自転車を30分ほど飛ばして隣町の公民館的なところにも行きました。そこは商業ビルの最上階に市の施設が入っているようなところで、展望デッキになっていて眺めも良く、割といい環境でした。そこで確率の問題集を解いたことを覚えています(数学の勉強リソースは確率にかなり振っており、確率漸化式マスターを目指していました)。涼しくなってくると、自分なりに服装をキメて、近所の巨大公園に行き、ブックカバーを付けた世界史一問一答をベンチで読み、「昼下がりの公園のベンチで読書をしている人」を演じていました。

 同級生が大学や予備校に通っている一方で、私は24時間地元にいたので、地元への興味や愛着が深くなってきました。図書館の郷土資料コーナーの資料を読んでみたり、郷土資料館に通ってみたりして、「郷土史家になりたい」なんて言っていた時期もありました。

 ここで、どういう受験勉強をしていたのかにも少し触れておきます。基本的にはツェット会の通信教材をやっていました。教材は教科書や問題集とテストから成るのですが(テストは解いて送ると添削してもらえる)、私はテストだけやっていました。テストなので本来は何も見ずに制限時間内にやるものだと思うのですが、私はネットや教科書を見まくってやっていて、特に数学などは解けるまで何日も同じ問題に取り組んでいました。そんなやり方なのと、もともとサボり気味だったこともあり、テストの提出期限は何ヶ月も遅れるのがデフォでした。あとは一問一答系の暗記とかをやっていました。

 こんな勉強スタイルだったので当然かもしれませんが、秋の摸試も判定はよろしくなく、このあたりから私の精神状態はだんだんおかしくなっていきます。先述の実存の危機と、誰にも会わないことによる孤独もあったと思います。私はアニメを観まくり、アニメ感想ブログに力を入れ、最終的に5万字程度になる青春小説を書き始めました。また、図書館で勉強を始める前に哲学書を読むようになり、永井均『倫理とは何か』『翔太と猫のインサイトの夏休み』『ウィトゲンシュタイン入門』などを読んでいました。関連して『論理哲学論考』もちらっと読んでいました。図書館の階段の踊り場には美術展等のポスターが貼ってあり、そこで知ったフィンランドガラスデザイン展に全然興味が無いのに12月に行ったりもしました(展示会自体は良かったです)。このあたりの日記には「大学に落ちたら自殺する」と書いており、結構追い詰められていました(受験程度で何を大げさな、と思うかもしれませんが、これには例の実存の危機が関わっています)。何となく死のうかな~という気分で冬の夕暮れに散歩した雑木林がめちゃくちゃ美しかったことを覚えています。

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雑木林

 転機は年明けに訪れました。ツェット会から吉祥寺にある自習室を使っていいよ的な案内が来て、そこに通うことにしました。本当に自習室を利用するだけだったので、友達ができたりとか、先生に教えてもらったりとか、そういうことは一切無かったのですが、定期的に通うところがあるというのは精神の安定に繋がりました。冬アニメ「THE UNLIMITED 兵部京介」の影響で『絶対可憐チルドレン』を読むようになり、地元の駅前のブックオフで『絶チル』(100円くらい)を買って電車の中で読んで自習室に行き、帰りには吉祥寺のブックオフで再び『絶チル』を買うというサイクルができました。件のアニメはリアタイで観ていたのですが、その非常に楽しみな回が大学入試の二次試験と被っていて悔しかった記憶があります。そういえばこのあたりは人生で最もアニメをたくさん観ていた時期であった気がします。

 浪人時代の記録としてはこんなところです。今思い出した限りのことを書いたので、後で思いついたことがあったら追記していきます。

【追記1】

 浪人時代にはウクレレを始めたのでした。もともとヴァイオリンをやっていたこともあり、割とすぐそれなりに弾けるようになりました。弾き語りやソロウクレレをやりました。また、多重録音アプリでリコーダーなどと組み合わせたり、合唱曲の各声部をウクレレで弾いて合奏したりもしました。他にもヴァイオリン・ピアノ・歌・鍵盤ハーモニカ・キーボードなどの楽器を使って多重録音していました。