ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

そして伝説へ

 こんにちは。ひかりです。今日は「そして伝説へ」の話をします。意味が分からない? 私もよく分かりません。

 ざっと調べたところ、この文句の元ネタはドラクエⅢらしいです。案外はっきりとした元ネタがあるものなんですね。パンをくわえて走って登校してたら転校生にぶつかる、みたいな、何となくあるあるなネタがいつしか形をとったものと思っていました(後者にもはっきりとした元ネタがあるのかもしれませんが……)。私はドラクエをやったことがないのでこの元ネタについてはこれ以上言うことがありません。

 そもそも「そして伝説へ」はどういうときに使うのでしょう。私のイメージとしては、伝記的なドキュメンタリーで使われていそうというのがあります。たとえば、ボクシングですごい連勝記録を打ち立てた選手のドキュメンタリーで、ここから連戦連勝、そして伝説へ……という感じです。つまり、伝説的な業績を残したことが既に知られている人の過去を振り返って、「ここから黄金期に入るぞ」という場面で「そして伝説へ」と言う、というのがしっくりきます。そう考えるとずいぶん使う場面が限定されていそうな言葉ですね。

 「そして伝説へ」に関してはこんなところです。何でこんな記事を書いたのかって? まあたぶん深い訳があるんだと思いますよ。

古墳と国分寺の話

 こんにちは。ひかりです。今日は古墳と国分寺の話をします。ぶっちゃけ両者の話題はあまり関係ないです。古墳メインです。

 みなさんの家の周りには古墳はありますか? 私の家の周りにはあります。自分で意識して探すようになるまではあまり知らなかったのですが、中学時代の通学路でなんか土盛り上がってるとこあるなと思っていたものが調べてみれば古墳だったりしました。うちの周りがとりわけ古墳が多いというわけでもないと思うので、古墳の無い地域でなければ案外そのへんに小規模なものであれば古墳はあるのかもしれません(弱い主張)。

 私は一時期『日出処の天子』という漫画にハマっていて、その影響で日本古代史全般に興味をもっていました。いや、古代史に興味といっても、学術書を真面目に読んだりはせず、歴史っぽいスポットに行って「これが千何百年前に造られた……」とロマンっぽい雰囲気に浸っていただけです。ともあれ、そうした興味で自分の地域の古墳を調べ、実際に現地に行ったりしていました。

 しかしまあ、うちの地域の古墳は小さいんですね。言われなければそれと気づかないようなものばかりです。もっと巨大な古墳が見たい! というわけで、私は埼玉は行田に行くことにしました。行田の古墳と言って皆さんピンと来るでしょうか。金錯銘鉄剣ってご存じですか? 「ワカタケル」の名が金の文字で刻まれていることで有名な剣です。歴史の教科書や資料集で見たことあるんじゃないでしょうか。あれが出土した稲荷山古墳を含む、埼玉(さきたま)古墳群が行田市にあります。

 で、埼玉古墳群を見に行ったのですが、とにかく大きいです。小山みたいなサイズです。権力あったんだろうな~という感じです。ハイキング気分で一通り古墳を上った後、例の剣を見に行きました。古墳群の近くの博物館っぽいところで展示されています。それを見て私は感動しました。私でも字が読めたのです。いや、江戸時代のくずし字とかって訓練積まないと読めないじゃないですか。ああいうのを想像していたのですが、なんか現代人がボールペンで書いた字のようで、普通に読みやすい字体でした。金象嵌のおかげで字の保存状態が良かったというのもあるんでしょうね。これがとにかく良かったので、皆さんも機会があれば剣を見に行くと良いと思います。

 ちなみに行田市は良いところでした。観光案内所的なところに行くと自転車を貸してもらえたので、それで古墳群以外の観光スポットも回りました。私は観ていなかったのですが、「のぼうの城」という映画のモデルになった忍(おし)城の跡も行田市にあり、観光名所っぽくなっていました。

 それで地元に帰って近所の古墳を見るとスケールの小ささに驚きます。どこで差がついたのか……。疑問に思った私はこんな妄想をしました。『日本書紀』に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱という事件が載っています。これはそもそも史実かもよく分からないし、どういう争いだったのかも詳しくは分かりませんが、上に述べた行田あたりの勢力と、私の住んでいる多摩川沿いあたりの勢力の争いだったという説もあるらしいです(本当か?)。それで多摩川勢力は負けたので、古墳が小さくなり、勝った埼玉勢は古墳が大きくなった。これが私の推測でした。ちなみに「埼玉(さきたま)」の由来ってよく分かっていないらしいのですが、「前多摩」ってことはないですかね? つまり、昔は多摩が武蔵の中心で栄えていて、その多摩に至る道として埼玉があったのだが、例の乱によって中心地が埼玉に移った。完全に妄想です。歴史に詳しい方のご解説をお待ちしています。

 古墳の話はこんなところです。ところで! 皆さんは国分寺を知っていますか? 聖武天皇の仏教政策で国ごとに造られたというお寺です。私の家の近くには武蔵の国の国分寺があり、まんま「国分寺」は市名・駅名にもなっています。その国分寺は跡を見るとさぞ立派なものだったのだろうと思います。七重塔なんかもあったらしいです。近所に七重塔があるって良くないですか? しかし武蔵国分寺は現在では文字通り跡形も無くなっています。かの分倍河原の戦いで焼失したらしいです。新田義貞率いる反幕府軍のところに北条泰家幕府軍鎌倉街道を通って攻めてきた! 戦火は広がり、国分寺は焼失(国分尼寺もこのときに焼失したんでしたっけ? 国分尼寺跡の方がまだ遺跡感あるんですよね)。悲しいですね。ちなみに、現在の分倍河原駅前には新田義貞公の像があります。

 そういえばこの前ブラタモリを見ていたんですけど、遺跡っぽいところに行って「ここは何の跡でしょう?」クイズが出されたんですよ。それを見て私が「めっちゃ国分寺っぽい」と言ったら、正解はなんと丹後国分寺だったんですね。国分寺特有の雰囲気なるものがあるかは分からないのでまぐれ当たりかもしれませんが、嬉しかったです。

私とヴァイオリン

 こんにちは。ひかりです。今日はヴァイオリンの話をします。最初、私がどういういきさつや環境でヴァイオリンを弾いてきたのかという話をダラダラとし、その後に、結局ヴァイオリンは上手くなれなかったけど何が良くなかったんだろう、という話をします。結論から言うとソルフェージュを頑張れということになります。基本的に暗い話です。

 私がヴァイオリンを始めたのは、あんま言いたくないのですが、3歳のときです。母が幼稚園の保護者会で知り合った方がヴァイオリンの先生で、どういうノリでかは分かりませんが、私はヴァイオリンを習わされることになりました。

 ヴァイオリンに関して私は小学校時代は一切主体性をもっていなかったので、その間の描写は飛ばします。なんか篠崎とかスズキの教本をやっていたと思います。この時代の主体性の無さはひどくて、自分が音楽をやっているという意識も一切ありませんでした。

 小6のころ「女王の教室」というドラマがやっていて、私はそのドラマのBGMが好きで、そのBGMがクラシック調だったものだったから、私は中学に上がったあたりでクラシック音楽に興味をもち始めました。モーツァルトのレクイエムから始め、いわゆる三大レクイエムなど、宗教的な合唱作品を聴くようになり、徐々にクラシックに馴染んでいきました。このあたりでふと、そういえば自分はヴァイオリンをやっていたのだったと気づきました。それでヴァイオリンを弾くモチベがだんだん上がり、音楽をやるのに主体性が出てきました。この頃はヴィヴァルディとかコレッリとかバッハを中心的に弾いていました。

 ウオー音楽やるぞーって感じのタイミングで高校に入り、高校には弦楽合奏部があったので、私はそこでヴァイオリンを弾くことにしました。部は8割が弦楽器未経験者と謳っており、私の代での経験者は私だけでした。それなので私はイニシアティヴをとる位置につくことになり、自分が執行代のときには音楽的なリーダー的なポジションにいました。

 このあたりで、「私は楽器が上手くないのでは?」と薄々思うようになりました。周りは高校から楽器を始めて、私は3歳からやっていたというのに、なんかみんなの方が上手いんですよね。リーダー的ポジションにいたというのもあり、自分が上手くないというのは心情的にも認めたくなかったし、対外的にも表立って認めるべきではなかったのですが、内心ビクビクしていました。なんとか実力を誇示しなくては、とチャイコフスキークライスラーヴィエニャフスキを弾いていましたが、弾けておらず、アピールにはなっていなかったと思います。

 大学に入っても室内楽やオケは少し続けました。しかし室内楽では周りのデキる人たちとの差を内心かなり感じ、オケにはついていけず(参加したオケがアウェーだったのもあります。ちなみにマーラーとか弾いてました)、もう20年近くやっているのに……と、かなり自信は無くなっていました。

 その後、弦楽合奏を再びやることになったのですが、このあたりで私はようやく自分の何がダメなのか気づき始めました。それまで自分が上手く弾けないのは練習回数が足りないからだとかセンスが無いからだとか思っていましたが、結論としてはソルフェージュの訓練が致命的に足りなかったのです。たとえば、自分が弾く楽譜を、固定ドでも移動ドでも良いのですが、階名で歌うということすら満足にできませんでした(歌もやっていたのにね)。

 これはまずいぞと思って階名唱と、それに必要な音感トレーニングを始めました。音感トレーニングとしては、とくにインターバル聴音に力を入れました。連続する2音を聴いて、それらの音程を答えるやつです。絶対音の聴き取りもそれなりにやりました。その後は和音聴音です。基本的な3和音(maj, min, aug, dim)の区別から始まり、それに基本的な7の和音(dom7, maj7, min7, dim7)を加え、聴いた和音がどの種類のものなのか、判別できるようにトレーニングしました。

 最低限の聴音能力が身についたところで、歌の練習を始めました。いや、合唱はやっていたのですが、発声というより、階名で正確な音程で歌う練習です。それも合唱でやるべきでは……? いや、そうなんです。実際、合唱の方でももちろん階名唱とか初見の練習はやっていました。ただ、それまでの私に無かったのは、聴音能力と譜読みを組み合わせるという視点です。「ドーファー」と歌うときに「自分はいま完全4度を歌っているぞ~! 自分が知っている完全4度はこういう音程だけど大丈夫か~?」と、何の音程を歌っているかをはっきりと意識し、出た歌声がちゃんと自分の身に着けた音感に適っているかチェックします。これでかなり音程感覚は良くなったと思います。

 こうしたトレーニングをやってしばらくして、自分のヴァイオリンの録音とか聴くと、まあピッチがひどくて聴けたもんじゃないんですね。右手の使い方とか左手の使い方とか、ヴァイオリン固有の訓練は色々受けてきたんですが、楽器を操る中の人が何が適正な音なのかよく分かっていなかったんで、運転手のいない車というか、まあそういう感じになっていたわけです。思えば私は3歳からヴァイオリンを始め、悪いピッチを厳しく矯正されずに楽器を弾き続けたので、気づけば音感はボロボロになっていたように思います。正解が分からずに練習していたという感じです。

 いや音楽ってさあピッチが正確ならいいってもんでもないでしょ、という声もあると思うのですが、私が上で述べたようなことはやはり最低限のラインなのだと思います。ここがしっかりしていないのにいくら反復練習しても付け焼刃にしかなりません。せっかく音楽理論は人並みに勉強したのに、全然演奏に活かせていなかったわけです(泣)。

 でも途中で練習の方向性を修正できたんでしょ、よかったじゃん。まあそうなんです。なんというか、聴けるヴァイオリンにはなりました。やめてくれっていう感じの音は前より出なくなりました。ただ、合奏団に所属してがむしゃらに練習していたころと違い、練習量が圧倒的に減ってしまったので、ヴァイオリン特有の技巧みたいなものは(身についていたものがひとつでもあったとして)ほとんど失ってしまいました。もうチャルダッシュとか弾けないと思います。今から技巧を身につけるには、それこそ「練習! 練習! 練習!」でしょうね。

 まあ、歌っぽいメロディをある程度綺麗に弾けるようになっただけでもだいぶハッピーエンドです。歌もうまくなった気がします(これもヴァイオリンと同様に、練習量が減ったので、発声の何らかの基礎的なところが圧倒的に衰えたはずですが)。皆さんも聴音や階名唱やりましょう。楽典も、音程名や和音の種類とかは勉強すると良いと思います。

浪人時代の記録

 私は出身大学に入るのに1年浪人しています。予備校には行かず、通信教育のみのいわゆる宅浪でした。浪人時代はつらく苦しい時でしたが、自分にとって何か大切な時期であった気もするので、記憶が無くならないうちに当時のことを記録しておこうと思います。

 私の浪人時代は自動車教習所に通っていた頃に始まりました。現役の受験が終わるや否や自動車学校に入り、大学に落ちたことを知ったのが3月で、自動車免許を取得したのが5月の頭です。合宿とかではなく通いでダラダラやっていたので割と時間がかかってしまいました。地元の浪人仲間ふたりと通っていたのですが、ふたりはATで私だけMTだったので、どんどん置いていかれ、焦ったことを覚えています。ちなみに教習所の待合室には『ジョジョ』の原作が第6部まで置いてあり、それを待ち時間に読むことで『ジョジョ』デビューしました。

 そんなわけで、免許を取得した5月あたりからようやく落ち着いて受験勉強に取り組めるようになりました。「免許を取った後しばらく運転を続けると、のちにペーパードライバーになってもすぐに勘を取り戻せるようになる」という本当かどうかよく分からない話を聞いたので、運転の習慣はつけたいと思い、両親が出勤する際のドライバーをやることにしました。うちは当時自営で、仕事場にそれなりの個人用スペースがあったので、そこを借りて勉強していました。この頃はまだ浪人生活が始まったばかりということで、気楽でした。

 ドライバーをやることで生活リズムもそれなりに安定し、両親の職場で集中して勉強できて、万事順調なようでしたが、ここで事件が起こります。ある日私は前日夜更かししたので父にドライバーを変わってもらうことにしました。そしてこの父の運転する車が、色々まずいと思うので詳細は伏せますが、事故を起こしました。私と母は無事でしたが、父はこれで腰の骨を折りました。事故現場は職場に近かったので、私が運転を代わり、父は職場の自室で寝たきりになってしまいました。

 この日から、母は職場で父の介護、私は実家でひとり暮らし&職場に通って生活物資を送り届けるといった生活が始まりました。両親の仕事も完全にストップしてしまったので、私はバイトを始めるべきではとか、受験をやめて就職すべきでは、などと色々考えました。結局そういう選択はとりませんでしたが。ちなみにこの頃、ひとり暮らしが寂しいので地元の浪人フレンズを家に泊めて夜通し「マリオテニス64」をやるなどしました。浪人時代の私は「マリオテニス64」とオセロにハマっていました。

 『テニスの王子様』にハマったのもこのあたりだった気がしています。職場に布団などを届ける道すがら見かけたブックオフで『テニプリ』を買ったのを覚えています。また、UFOキャッチャーで取ったデュエマのカードをブックオフに売った思い出もあります。ブックオフにものを売るにはプロフィールっぽいものを書かねばならないのですが、このとき職業欄に「無職」と書くしかなくて、「無職かあ」と思いました。ちなみにカードは5枚全部売って10円でした。

 父は本当に動けなかったので、しばらくは職場で寝ていましたが、じきに介護病院へ移りました。事故で保険も下りることになり、ひと安心です(以降、この年は保険金暮らしになります)。父は病院に任せ、私と母のふたり暮らしになりました。ちなみにこの頃スカイツリーが完成し、私は登りはしなかったものの麓(?)まで行きました。

 ところで私には「まどマギ」以降、クールごとにアニメを観る習慣ができていました。宅浪は24時間フリーだったので、ニコニコ動画の配信を通じてアニメを観まくりました。浪人時代に大きくハマったアニメは「人類は衰退しました」と「THE UNLIMITED 兵部京介」です。前者に関しては小説の読めない私が珍しく原作ライトノベルを読むくらいハマりました。後者に関しては後述します。アニメをたくさん観ており、人間との交流がほぼゼロだった穴を埋めたいというのもあって、アニメの感想ブログを開設しました。自分なりに結構力を入れて記事を書いて、コメントしてくれる常連さんもできて、ツイッターでもたまに言及されていたようで(当時はツイッターをやっていなかったのでエゴサの仕方をよく分かっていませんでした)、自分がインターネットで発信してきたコンテンツの中では比較的たくさん反応をもらえた方でした。人の感想記事も積極的に読んでいて、感想文って良いものだなあとこのあたりで思うようになりました。

 アニメを観たり、浪人フレンズと公園でテニスをしたり、片道30分自転車を飛ばしてテニスの壁打ちに行ったり、幼少期過ごした街を訪れたり、色々遊んでいたので、勉強時間は割と少なかったと思います。夏の摸試は結構判定がひどかったはず。このあたりで焦りも出てきて、あと、ここには書けない実存的な危機もあり、精神的に不安定になってきます。

 そういえば父は退院し、家に介護用ベッドが運び込まれ、自宅介護ということになりました。たまに病院で診てもらう必要があったので、私がドライバーをやって、高速道路を通って通院していました。

 もともとは両親の職場で勉強するプランでしたが、それができなくなったので、私は勉強場所を色々探しました。鉄板の図書館も利用しましたし、これまた自転車を30分ほど飛ばして隣町の公民館的なところにも行きました。そこは商業ビルの最上階に市の施設が入っているようなところで、展望デッキになっていて眺めも良く、割といい環境でした。そこで確率の問題集を解いたことを覚えています(数学の勉強リソースは確率にかなり振っており、確率漸化式マスターを目指していました)。涼しくなってくると、自分なりに服装をキメて、近所の巨大公園に行き、ブックカバーを付けた世界史一問一答をベンチで読み、「昼下がりの公園のベンチで読書をしている人」を演じていました。

 同級生が大学や予備校に通っている一方で、私は24時間地元にいたので、地元への興味や愛着が深くなってきました。図書館の郷土資料コーナーの資料を読んでみたり、郷土資料館に通ってみたりして、「郷土史家になりたい」なんて言っていた時期もありました。

 ここで、どういう受験勉強をしていたのかにも少し触れておきます。基本的にはツェット会の通信教材をやっていました。教材は教科書や問題集とテストから成るのですが(テストは解いて送ると添削してもらえる)、私はテストだけやっていました。テストなので本来は何も見ずに制限時間内にやるものだと思うのですが、私はネットや教科書を見まくってやっていて、特に数学などは解けるまで何日も同じ問題に取り組んでいました。そんなやり方なのと、もともとサボり気味だったこともあり、テストの提出期限は何ヶ月も遅れるのがデフォでした。あとは一問一答系の暗記とかをやっていました。

 こんな勉強スタイルだったので当然かもしれませんが、秋の摸試も判定はよろしくなく、このあたりから私の精神状態はだんだんおかしくなっていきます。先述の実存の危機と、誰にも会わないことによる孤独もあったと思います。私はアニメを観まくり、アニメ感想ブログに力を入れ、最終的に5万字程度になる青春小説を書き始めました。また、図書館で勉強を始める前に哲学書を読むようになり、永井均『倫理とは何か』『翔太と猫のインサイトの夏休み』『ウィトゲンシュタイン入門』などを読んでいました。関連して『論理哲学論考』もちらっと読んでいました。図書館の階段の踊り場には美術展等のポスターが貼ってあり、そこで知ったフィンランドガラスデザイン展に全然興味が無いのに12月に行ったりもしました(展示会自体は良かったです)。このあたりの日記には「大学に落ちたら自殺する」と書いており、結構追い詰められていました(受験程度で何を大げさな、と思うかもしれませんが、これには例の実存の危機が関わっています)。何となく死のうかな~という気分で冬の夕暮れに散歩した雑木林がめちゃくちゃ美しかったことを覚えています。

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雑木林

 転機は年明けに訪れました。ツェット会から吉祥寺にある自習室を使っていいよ的な案内が来て、そこに通うことにしました。本当に自習室を利用するだけだったので、友達ができたりとか、先生に教えてもらったりとか、そういうことは一切無かったのですが、定期的に通うところがあるというのは精神の安定に繋がりました。冬アニメ「THE UNLIMITED 兵部京介」の影響で『絶対可憐チルドレン』を読むようになり、地元の駅前のブックオフで『絶チル』(100円くらい)を買って電車の中で読んで自習室に行き、帰りには吉祥寺のブックオフで再び『絶チル』を買うというサイクルができました。件のアニメはリアタイで観ていたのですが、その非常に楽しみな回が大学入試の二次試験と被っていて悔しかった記憶があります。そういえばこのあたりは人生で最もアニメをたくさん観ていた時期であった気がします。

 浪人時代の記録としてはこんなところです。今思い出した限りのことを書いたので、後で思いついたことがあったら追記していきます。

【追記1】

 浪人時代にはウクレレを始めたのでした。もともとヴァイオリンをやっていたこともあり、割とすぐそれなりに弾けるようになりました。弾き語りやソロウクレレをやりました。また、多重録音アプリでリコーダーなどと組み合わせたり、合唱曲の各声部をウクレレで弾いて合奏したりもしました。他にもヴァイオリン・ピアノ・歌・鍵盤ハーモニカ・キーボードなどの楽器を使って多重録音していました。

ナナとミチル、ナナとコハル

 この記事は漫画『無能なナナ』に関するものです。第7巻までのネタバレを含むので未読の方はご注意ください。

 アニメの最終話を見返していて、やっぱりナナとミチルの関係にはすれ違いというか非対称性みたいなものがあるよなあと思いました。一言で言えばナナ→ミチルの方が愛が重いんですよね。ナナにとってミチルは初めての友だちで、過去のトラウマから救ってもらった経緯もあり、本編ではそこまで描かれなかったけれど、事の成り行きによれば依存に近い関係になっていたような気がします。

 これに対して、ミチルから見たナナは数多くの愛すべき人間のうちのひとりという感じがします。もちろんミチルにとってもナナがある程度特別な人間であることは間違いが無いのですが(ヒトミと同じポジションの尊敬すべき人だということになっている)、ミチルがナナを救ったのは、ナナを特別視していたというよりは「どんな人でも助けなきゃ」という格率に従った結果だと思います。トラウマの件にもミチルはそうした気持ちで取り組んでいたでしょうし、命懸けの蘇生にしても、実はツネキチに対しても試しています。リバイバルのリスクがどれだけなのかあのときのミチルが自覚していたかは分からないけれど、下手したらツネキチのために命を投げ出していたかもしれません。まあツネキチに対して成功しなくてナナだと成功したのはナナへの想いの方が強かったというのがありそうですが、それにしてもミチルの行動の根底にあるのは無差別の愛のようなものです。

 情報に関しても非対称性があって、ミチルには裏表が無く、ナナはミチルの基本的な性格をほぼすべて知っていると言ってよい一方で、ミチルはナナの裏の顔について極端なほど何も知りません。蘇生のシーンについても、「ナナしゃんはいい人なんだから」「わたしはいい人なんかじゃない」というすれ違いがあります。「なにがあってもナナしゃんの味方です」という台詞はあるものの、ナナの殺人者としての面を知ったミチルがそれまでと同じようにナナと接したかどうかはちょっと分かりません。

 以上のような要因から、ナナとミチルの関係は、何かとナナ→ミチルという一方通行な面があると思っています。なので不安定と言えば不安定なんですよね。それでもアニメ第12話のような美しい瞬間が実現したのは色々な嘘や偶然が積み重なってのことで、ふたりの関係にはそうした儚さがありました。

 ところでナナの友だち候補としてもうひとり、三島コハルという人間がいました。ナナとコハルの関係は何かとナナ・ミチルの関係と対照的だと思います。まず、ナナ・ミチルのカラーが無邪気・純真といったものであるのに対し、ナナ・コハルはそもそも対立しており、その関係はダーティで、大人っぽいところもあります。また、上でナナ・ミチルについて述べたような非対称性がナナ・コハルにはありません。第6巻ラストでナナとコハルの友情の可能性が示唆されますが、それは一匹狼同士が手を取り合うといった感じで、どちらか一方の気持ちが重いということはありません。情報についても、コハルはナナの殺人を知った上で手を組もうとしていたし、コハルにも殺人に手を出しかねないような黒い面があることをナナは知っています。また、敵対している間にも互いのことを認め合うような描写があり、ナナ・コハルの関係を一言で表すならば「対等」という感じがします。

 こうした面について考えると、コハルと手を結べなかったことはナナにとってかなり痛手だったと思います。ミチルがナナを精神的に救い、自律した人格へと成長させたのだとすれば、そのようにして兵士であることをやめたナナが初めて自分の意志で友情を築く相手になりえたのがコハルです。ナナ自身「長いつきあいになりそうだな」と述べていたように、互いの汚い面も知った上でのふたりの友情は、それが実現していたなら悪友関係のようなものになったはずで、ある意味とても安定していたことでしょう。そのような惜しさも感じていたから、ナナも橘とモエに「つながりを切り捨てたくない」と述べたのではないでしょうか。

 というわけでミチルとコハルはどちらもナナの友だちになりうる人間でしたが、彼女らとの関係性は様々な点でコントラストを成しており、ふたりはそれぞれの仕方でナナにとって重要な人間でありえたというお話でした。そんな人間をどちらも仲良くなれそうになった端から失っていく柊ナナかわいそうすぎる。

『無能なナナ』アニメ第13話感想

 この記事はアニメ『無能なナナ』第13話の感想記事です。原作のこの先の展開のネタバレはありませんが、既にアニメ化された箇所に関する原作との比較コメントは含むのでご注意ください。なお、直接的なことを言わずとも「原作を読んで先を知っている人間がこういうコメントをしている」ということ自体がある種のネタバレ的情報をもたらすということもあるかもしれませんので、そのあたりもご了承ください。

 アニメにとっては最終話ということで、大事なお話なのでどうなるか不安もありましたが、良かったですね。はしょったりもせず丁寧に描かれていて、声優陣の演技も素晴らしく、満足のいく最終回でした。

 先にお話について言うと、私は最初に原作でこのお話を読んだとき、なぜか「見えざる刃」編がこんなにバッドエンドだとは思っていなかったんですよね。後から考えるなら、ミチルの死亡フラグは立ちまくっていたし、作品の性格からしても何かしら悲劇が起こることは予想できたはずなのですが、私はミチルがナナを助けるシーンを読んでもまだミチルが死ぬと思っていなくて、ナナとミチルがお互いに助け合って「雨降って地固まる」的なエンドになると思っていました。なので最後のシーンはすごくショックだったし、これではナナがあまりに報われないということで、ナナのその後を見たくて、この漫画は追っていくぞと決めたのでした。そういう経緯もあって、今回のエピソードはとても思い入れのあるお話です。

 アニメを観て一番印象に残ったのは「早くしろこの馬鹿犬」からの一連のナナの台詞でした。せっかく築いた友情を壊すような悪態をついてナナがミチルに逃げるよう促すというシーンなのですが、大久保さんの演技が泣きそうな声になっていて、それが原作を読んだときのイメージを超えていたというところがあります。ここのナナは言行不一致というか、口ではミチルをどれだけ罵っていてもやっていることは命を賭してミチルを助けるということなので、それが本心からの台詞じゃないというのはまあ誰が見ても明らかなのですが、アニメだとそれ以前にナナの声音がミチルへの気持ちを全然隠せていなくて、ミチルを想う気持ちがミチルにストレートに伝わっている感じがして良かったです。絵に関してもアニオリでナナが涙を流すカットが一瞬入っていて、そこの表情も素晴らしかったですね。

 また、「許さないぞっ」の中原さんも良かったですね。普段のミチルとも、橘が化けていたミチルとも違った、毅然とした声が素敵でした。ミチルは最初迂闊にナナを信じすぎで、羽生・カオリ殺害事件のときはナナを庇ってキョウヤを糾弾するなど、真相を知っている読者からすれば愚かに見えさえするキャラクターとして出てきますが、「見えざる刃」編を通じて本当は色々なことを考えて動いていることが分かり、行動にも芯のある強い人だということが段々見えてきます。そしてこのシーンでは、ナナに守られるだけのか弱い存在ではなく、精神的にはひとりで鶴見川にも立ち向かえるような勇気のある面が描かれます。中原さんの演技はそうした文脈にマッチした力強いものだったと思います。

 鶴岡の藤原さんは先週は一言だけでしたが、今回は長台詞がありましたね。個人的に藤原さんはある程度三枚目というか、ユーモアのあるキャラのイメージが強かったので、藤原さんの鶴岡がどういう感じになるのかイメージできないところがありましたが、いい感じにねちっこい喋り方で鶴岡の邪悪さがよく表れていました。あととにかく声が良い。第2期があるとしても藤原さんの鶴岡が聴けないのはとても残念です。

 声優さんのお話繋がりで、この段落はちょっと横道です。最終話が最速で放送される12月27日のお昼に私は「ニコナナ」という最終回直前の特番を観ていたのですが、そこで大久保さんが鶴見川役の山谷祥生さんについてお話されていました。大久保さんと中原さんと山谷さんの揃う現場が数年前にあって、そのとき以来の共演で感慨深かったというお話でした(私は観ていないのですが、『一週間フレンズ。』のことのようですね。6年前なのでずいぶん昔です)。「ニコナナ」は最終話のネタバレNGでやっていたので、鶴見川が犯人だと言えない状況で大久保さんは話されていたわけですが(キャラ名も「子分C」となっていました)、第11-12話というよりは最終話を念頭に置かれていたのだろうなと思います。(鶴見川の声は第12話だとかわいくて、それが今回だと基本は同じ声だけど喋り方はゲスな感じになっていて面白かったです。)

 BGMの入れ方も良かったです。『ナナ』はBGMが少ない作品で、それは意図されたことのようですが、重要な場面ではしっかりBGMが仕事していますね。今回だと感動的な場面もそうだし、ミチルが鶴見川に追われるシーンなど、緊迫した場面でもBGMが雰囲気を作っていました。

 感想ハイライトはこんなところです。以下ではいつものように個別のシーンごとにコメントをつけていきます。

  • リバイバル」ってサブタイめちゃくちゃ良いですよね
    • これまで能力名やそれに関連する言葉でサブタイ縛ってきたのがここで活きる
    • 名前が変わっててミチルの能力が明確に進化したということ
  • 「お前が殺したんだ 認めろ」嫌らしい言い方が素敵
  • 「それでもナナしゃんのせいじゃないです!」のところは原作だとミチルが結構怖い顔をしていているのですが、アニメだと控え目(原作テイストを忠実に再現するとギャグっぽくなっちゃうかな)
    • 原作だとこのミチルに対してナナが「ひっ!」と怯えていてちょっと面白いのですが、アニメの声の出し方は自然な感じでした
  • 「これが……ミチルが連日浮かない顔をしていた答え?」実は悪い奴でした的なミスリードをしてきたこの作品で、ミチルは根っからの善人でしたという逆のミスリードが上手い
  • 「なにがあってもナナしゃんの味方です」ミチルはナナが殺人鬼だと知らないからこそ良くしてくれたという面はあるのだけど、この台詞を聴くと最終的に全部受け容れてくれたんじゃないかと希望がもてる
  • 孤独な幼少期のナナをミチルが救い出す描写は、ナナは大人びていてもその成長のある面は両親が殺された時点で止まってしまったのだということを表しているのかな
    • プレゼントのくだりで「おともだち」に対してどう接すれば良いのか分からず手探りなあたりもそんな感じがする
  • キョウヤに「好きな男でもできたのか?」と言われたり、プレゼントの枕を抱えて「今なにしてるかな」と頬を染めたり、恋心みたいなところあるよね
  • ナナとミチルがプレゼント交換し合うシーンは何か原作より森感が強かった
    • 「眠るたびにミチルちゃんのこと思い出しちゃいますね」つらい
  • 先輩に対するナナの生意気な後輩感好き
  • 実は敵に襲われるミチルをナナが助けに走るシーンはもうひとつあって、アニメだと第4話なんですが、あのときは(茶番なので)キョウヤを頼らなかったことを突っ込まれていたのに対し、今回はキョウヤに助けを求めていて、地味に対比っぽい
  • 鶴岡の電話に姿勢正しちゃうナナ好き
    • ここでナナが親を失った子どものための育英基金に報酬をあてようとしていること、自分の給料を親戚に振り込んでいることが分かり、地味に株が上がる
  • 「"人類の敵"が勝手に"人類の敵"と殺し合う 好都合じゃないか」全然そう思ってなさそうな表情が良い
  • 鶴見川がミチルを追うシーンは臨場感がある
  • 「彼女どこか薄汚いものを感じるんです」鶴見川のナナ評はある意味合っているのが皮肉
  • ナナがミチルを庇って刺されるところは間一髪って感じのリアルタイム感があって良かった
  • 鶴見川の登場シーンかっこいいですよね
    • 幽体っぽいうにょうにょのエフェクトも良い
    • 原作だとフウコと鶴見川の口調が同じなので、ぎりぎりまで「やはりフウコか?」と思わせておいての鶴見川というイケてる演出なんですが、アニメだと流石に声でバレる
  • ナイフの重量感が良い
    • 「いいナイフだな」ナナしゃんは敵を煽るときに持ち物を褒めがち
  • 「隙を作る」の内実が自分の首を切るように誘導することって身体張りすぎ
    • 最初は本当に何か策があるのかと思ってました
  • 実はナナからミチルへの最後の言葉は「お前みたいな偽善者はだいっきらいだっ!!」なのつらい
    • 原作だとミチルが死ぬところがやっぱり印象に残ったけど、アニメだと演技や作画が相まってこの台詞が一番良かったです
  • ミチルを逃がした後のナナの表情がかっこいい
  • ナナのピンチを救うキョウヤはベタだけど熱い
  • 一番余裕が無いときにキョウヤを頼ったり、キョウヤの判断に「さすがですね」と言ったり、ナナ→キョウヤの信頼が厚い描写が良い(自分が詰められた経験があるからこそ信頼できるのを知っている)
    • 「話が早いだろうという意味でですよ?」かわいい
  • ナナを疑いつつも心配するキョウヤ良い
  • 「くだらない能力者に無策で突っ込み」まさか無策だったとは……
  • 殺してきた能力者たちを振り返るのが時系列逆順になっていて走馬灯っぽくて良かった
  • 「パパ……ママ……」あたりのモノローグはどっちの声なのかなと思っていたけど裏ナナの声(まあこのあたりになると境界が曖昧なところある)
  • 原作だとナナの蘇生シーンでミチルが両足とも靴を履いているという作画ミス的なものがあるのですが、アニメだと片方脱げてましたね
  • 「ナナしゃんを返してくださいーーっ!!!」は最後の伸ばしをどう発音するのか気になっていた
    • 「さーい」だとギャグっぽいし「さいー」だと日本語の発音として不自然だし……、結果としては伸ばさないという選択
  • ED映像はカットだけどあの映像は最終話にこそ合いそう
  • ミチルを失ったナナが子どもっぽく「やだ」と繰り返すだけなのがつらい

 アニメシリーズの構成に関して、第5巻に少し入るだろうと思っていた原作勢の方も多いようですが、私は第8話を観たあたりで、第4巻ラストで終わるんだなと思いました(後出しジャンケン感がありますが、本当です)。私が1クールで構成考えろと言われたとしても多分ここで切ります。とにかく切れ目の無い作品なので、どこで切っても中途半端になってしまうのはそうで、それだったら一番大きな切れ目はミチルの死なのだからそこで終わらせるのが妥当ということになると思います。いや、「見えざる刃」編に限っても謎はまだ全部回収されていないのでそれにしてもキリが悪いだろうという話も分かるのですが、細かい謎を回収するためにミチルのシーンがラストでなくなってしまうというのは代償が大きい気がします。それだとナナとミチルの関係に収斂するというファーストシーズンの物語の軸がぶれてしまうように思うんですよね。というわけで第4巻ラストまでで1クールと決まった上でと考えると、各話のペース配分は良かったなという印象です。まず、原作のカットがほとんど無かったので、原作の忠実なアニメ化を目指しているとすればそれだけで構成としては成功でしょう。それに加え、各話の引きもしっかり作って、アニメ勢も次回を楽しみにできるような作りになっていたと思います。このあたり、私は不満は無いです。

 あとは第2期ですね。第2期さえあれば、「見えざる刃」編で急いだりアニオリでまとめたりしなかったことも活きてきます。原作ストックがまだ第2期をやれるほど無いですが、もう少し経てば貯まるはずです。商業的なことは分からないのですが、BDの売り上げはやっぱり大事なのでしょうか? 少しでも第2期の実現可能性を上げたいなと思い、珍しくBDを買いました。第1巻は入手し、それ以降も全巻予約済みです。全3巻というのが買いやすくて良いですね(全6巻とかだったら買っていなかったかも)。ちなみにBDプレイヤーは持っていなかったので『ナナ』のためにわざわざ買いました。第2期来てくれ~頼む~!

 というわけで『無能なナナ』最終話の感想でした。アニメでこの作品を知って、すごい勢いで原作を読み、毎週リアタイでアニメを観て、この3ヶ月とても楽しかったです。原作は本誌で追い続けますし、アニメ第2期も期待したいです。あと原作第6巻ネタで二次創作描きたいです。

巨大クリスマスリース

 私は小さい頃クリスマスが好きでした。そしてそのことは、当時住んでいた家の近くにあった東急百貨店に深く関係しています。

 その東急デパートは駅の2階から渡り廊下で繋がっていて、5階建てくらいのビルに入っていました。そのビルの1階から3階くらいまでは吹き抜けになっていて、クリスマスシーズンになるとその吹き抜けを貫く巨大クリスマスツリーが飾られていました。私はクリスマスの飾り付けが好きで、その巨大ツリーにぶら下がっているメタリックな球の飾りが特にお気に入りでした。

 そんなクリスマスツリーもインパクトが強かったのですが、それよりもさらに強く印象に残っているのが巨大クリスマスリースです。東急デパートは駅から渡り廊下で繋がっていると言いましたが、その廊下の終端、東急デパートの入り口の上に、超巨大な、直径3メートルくらいはありそうなクリスマスリースが毎年出現していました。それはある種不気味な、観る者に畏敬の念を抱かせるようなモニュメントでした。巨大な人工物に対して恐怖心を抱く人がいるそうですが、そうした恐怖に近い感情を呼び起こさせるような、崇高な感じのするモニュメントでした。

 巨大なものに対する恐怖といえば、東急デパートの屋上には巨大なマリオのドームがありました。当時はおそらくまだ「デパートの屋上の遊園地」が全国に点在していた時期で、当のマリオはそのアトラクションの一部でした。ビニールでできた巨大なマリオに空気が詰め込まれ、子どもたちはその体内に入って遊びます。マリオの体内はポンポン弾むトランポリンのようになっていて、それで跳ね回ると楽しかろうというわけです。私はこのマリオに異常な恐怖を感じていました。マリオを見るだけで泣いたこともあったと思います。5メートルとかそれくらいの高さがあるマリオの巨像が風に揺れてビヨビヨ頭を振っていたら子どもでなくても怖いのではないでしょうか。

 そうしたマリオ的恐怖を例のクリスマスリースにも感じていた節はあります。ただ、マリオは単純に怖かったのに対し、リースは好きだった記憶があります。子どもから見て高いところに飾られていたこともあって、観ていると吸い込まれそうになり、それでいて綺麗で、クリスマスシーズンにしか出現しないというレア感もあり、トータルでは気に入っていたのです。

 それにしても、ツリーはともかく、リースをそんなに巨大にすることって普通でしょうか? 皆さんはとても巨大なクリスマスリースを見たことはありますか?