ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

『異世界美少女受肉おじさんと』王都編の主人公は誰か

 こんにちは。ひかりです。今回は『異世界美少女受肉おじさんと』(『ファ美肉』)のいわゆる王都編について、誰を主人公と見るかが結構割れそうだなと思ったので考えたことを書きます。ちなみに私は現時点で原作をサイコミ最新話まで読んでいて、本記事はそのあたりのネタバレを含みえます(もう少し言うと、アニメ第1期で描かれるであろう範囲(予想、原作第5巻まで)は既知としますが、それ以降の範囲についてはほとんど触れていません)。また、以下では大塚英志『ストーリーメーカー』の用語や考え方を特に説明なく用いています。

 まず王都編の範囲ですが、さしあたり第4巻冒頭(第41話)から第5巻後半の第68話までとしておきます。橘と神宮寺が王との謁見に臨むところから、メーポンを倒して橘が神宮寺に魅了されるところまでですね。

 王都編の主人公の候補はふたりいます。橘と神宮寺です。この作品全体をみても、このふたりはダブル主人公っぽさがあって、どちらが主人公と決めがたい感じがしますが、たとえばイカ編などは神宮寺が主人公だと思います。これに対して王都編では、ふたりのうちどちらを主人公とみても整合性がとれる気がする、というのが本記事の趣旨です。

 まず、橘を主人公とみた場合を考えます。『ストーリーメーカー』の考え方に従えば、物語の形の基本は「行って帰る」です。橘を主人公だと考えると、橘はメーポンの中という異界へと行って帰ってきました。また、こうした「行って帰る」には「欠落の回復」というテーマが重ね合わされます。橘において欠落していたのは神宮寺です。王都編の大部分を通じて橘と神宮寺は離れ離れになっていましたが、メーポン戦を経て再び一緒になります。外面的なところだけをみれば、王都編は橘からすれば、神宮寺を失ってメーポンの中へと入り、神宮寺との対決を通じてメーポンから救い出され、再び神宮寺と一緒になったという物語です。

 こうした外面的な物語と並行して、橘の内面の物語が進行します。様々な描写から、王都編における橘の内面的な欠落が神宮寺からの承認(褒められ)であったことは明らかです。そうした欠如が、メーポンの中で神宮寺に褒め倒されることで回復します。内面的には、神宮寺に褒められたことがないと感じていた橘が、騒動を経て神宮寺にめちゃくちゃ褒めてもらってその欠如を回復する、というのが橘を主人公とした王都編のあらましです。

 物語の構造上の契機や人物の役割を橘主人公でざっくり見ていくと以下のようになります。冒険への招集は姫に連れられて反乱軍に参加したことです。この意味で姫は派遣者の役割を担っています。冒険の拒絶は、橘が反乱軍キャンプから逃げ出そうとするところです。その後、橘はカーム(メイド長)によって精神干渉を受けますが、これは贈与者の第一機能(先立つはたらきかけ)にあたるでしょう。その後、橘はカームからメーポンを与えられます。これらは橘にとってプラスの出来事ではありませんが、構造的にはカームは贈与者です。一時的に橘を慰めて匿うというのも贈与者に相応しいムーヴです。次いで橘は文字通り門を越え、メーポンに乗り込み、異界へと旅立ちます。ヴィズドは助手といえなくもないでしょう。ここからは敵対者である神宮寺との戦いです。橘の外面的な目的は神宮寺を倒すことで、内面的な目的は神宮寺に褒められることです。どちらにおいても、神宮寺自身がその目的を阻害してきます。この外面的な戦いに橘は負けますが、内面的な目的は果たします。その後、神宮寺に助けられてメーポンから脱出し、神宮寺の傍に戻ります。ここで橘は神宮寺に魅了をかけられますが、これがこの冒険に際して橘が得たものでしょう。失ったものは神宮寺に対する精神的な優位とかでしょうか。

 このように、橘を主人公としてみた場合、王都編の構造はかなり綺麗に理解することができます(旅立ちまでの背景説明にあたる日常パートが長いことになりますが)。他方で、神宮寺を主人公とみても、それなりの仕方で物語の構造を取り出すことができます。

 神宮寺にとっての「行って帰る」は、城からメーポンのもとに行って帰るといったことでしょう。メーポンの中が典型的に異界っぽかったことを思うと少し地味ですが、まあ空間移動はあります。外面的に欠落していたのは橘で、橘を取り戻すという分かりやすいストーリーになります。内面的には、「男が男に嫉妬するなんてありえない」という固定観念が神宮寺の欠落にあたります。これに対して、橘との対決を通じて「もう少し正直に生きようと」したのが神宮寺にとっての成長です。

 神宮寺からみた派遣者はシュバ君だと思います。外面的な物語とあまり連動していないので微妙ですが、シュバ君が神宮寺に「悩み…聞きますよ…?」とアプローチするのが召集の場面であるように見えます。これに対して神宮寺は「悩みなどない」と答えて一旦冒険を拒絶します。その後、メーポンの襲撃があり、神宮寺はメーポンのもとへと向かう決意をします。贈与者は目立ちませんがシェンでしょう。神宮寺にワヌという移動手段を贈与してくれますし、橘と別れたあと腑抜けになっていた神宮寺の庇護者のように振る舞っていたところもあります。この旅に同行するシュバ君は助手でもあります。この後、神宮寺はメーポンとの物理的な戦いや橘との対話を経て(神宮寺の敵対者はメーポンであり、橘ではないでしょう。このあたりは橘を主人公とみたときと対照的です)、「男に嫉妬するなんてありえない」という自らの思い込みを打破し、橘を取り戻して、外面・内面両方において戦いに勝利します(こうした戦いにおいてシュバ君の果たした役割がかなり大きいのが特徴的ですが)。神宮寺は橘との関係を回復し、自分に正直な態度を手に入れましたが、以前のような橘への距離感を失います。

 このようにみると、王都編は神宮寺が主人公だと考えても十分に成り立つ構造をもっています。ただ、物語は主人公によって個別化されるものだと思うので、王都編は橘サイドと神宮寺サイドの両方の物語が重なり合ってできていると考えるのが自然でしょう。ふたつの物語がここまで違和感なく重なって調和しているのは相当すごいと思います。

 付け加えて言えば、強いてどちらがより主人公らしいかと考えると、それは橘だと思います。橘に関しては、幼少期からの神宮寺へのコンプレックス交じりの憧れがかなり丁寧に描写されていて、抱えている内面的な問題に深みがあります。これに対して、神宮寺にとって最もシリアスな問題であると予想される家庭環境の話題は王都編ではまだ前面に出ておらず、この要素は原作でもまだ回収されていません。このあたり、今後メーポンの事件に匹敵するような波乱が原作において生じ、そこにおいては神宮寺が真の主人公になるのでは、と予想されます。そして、王都編がざっくり橘の闇堕ちを神宮寺が救うストーリーであった以上、神宮寺の過去が掘り下げられる段では逆に橘が神宮寺を救うようになるのかなとも思います。

 王都編は尺も長く、描写もかなり複雑なので、もっと細かい分析は色々できると思います。特に、橘と神宮寺がダメになっている間にシュバ君を主人公とした小さな物語が展開されていたという読みは妥当な気がしますし、シュバ君がサブキャラにしてはあまりに活躍しているあたりも考えようがあるでしょう。ユグレインというキャラクターの位置づけ(とくに幼少期の神宮寺と重ねられている点)についてもいくつか指摘されるべきことがある気がします。

 それはそうと、『異世界美少女受肉おじさんと』は現在アニメ第1期が放送中で、原作もコミックアプリ「サイコミ」で週間連載中です。原作は絵がめちゃくちゃうまくてびっくりするのでアニメを観て気になった方は是非読んでみてください。