ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

インターネット家出 3日目――黙って生きよ!

 ツイッターをログアウトしてから2日が経ちました。なんか思ったより全然時間経ってないですね。自分としてはもう1週間くらいツイッターにいない気持ちなのですが、2日ツイートしないなんてライトユーザーからすれば普通です。「もうログアウトしてからそんなに経つのか」と思える日が来ることを願います。

 唐突ですが、私は物心ついたときから表現、express的なことをずっとやっていました。小学生のときは漫画や絵を描いたり、ツクール製のRPGを作ったりしていました。中学に上がると、漫画に加え、小説やポエーーム的なものも書くようになりました。作曲も始めました。高校でも小説的なものを書き、曲を作っていました。浪人時代にはアニメ感想ブログをやっていました。人には見せられない内面的な日記もつけ始めました。大学に入ってからは、それまでの創作的なことに加え、ツイッターに思ったことを書いたり、自分の思索を手元のメモにまとめたりしていました。そして今もこうしてブログを書いています。基本的に私は多弁なのです。

 ツイッターをやめてみると、思いついたことをすぐに表現できなくなりました。たとえば私は本を読んでいて分からないことがあるとすぐにツイッターに(その文脈が分かる人なんていないことの方が多いにもかかわらず)疑問点を書いていましたが、今はそういう細々した思念は私の心の中にだけ沈殿していきます。連動して、もともと創作アカウントでもあったサブアカウントをやめたことによって、漫画や絵も描かなくなりました。そうすると何だか創作的なこと全般から足を洗った方が良いような気がしてきて、小説的なものも書かなくなり、曲も作らなくなりました(これらはもともと頻度が高い方ではありませんでしたが)。今では1日の中で考えた色々なことごとのうち、ある程度はっきりした形をとるようになったことどもをこのブログや日記にある程度まとまった文章の形で書いているだけです。

 こうした変化を体験するにつれ、表現が日常ではないような人生とはどのようなものなのだろうと思うようになりました。別に私は創作家でも何でもなく、ただちょっとインターネット上でお喋りなだけの人だったわけですが、世の中にはSNSもやらず、絵も描かず、普段の生活においてまとまった文章を書く機会もほとんど無いような人々がたくさんいます。そのような人生の過ごし方をしたことがほとんど無かったため、それがどのような過ごし方なのかもはや分からないのですが、しかしそうした暮らしに何か粛々とした、清い印象を受けるようになりました。

 表現は何かの表現であり、私たちは表現をする前にそのもとになるような人生を生きているわけです。表現ばかりしていると、そのもとの人生が後景に退くのではないか、そうした思いが最近湧いてきました。何も語らずにただ道を歩くとか、自転車で遠くに行ったことを誰にも語らず、ブログにも書かないとか、そういうことが大事なのではないかという漠然とした思いがあります。創作や執筆の元ネタではなく、ただ生きられた生のようなもの、表現されない生が、今までの私の人生においてはないがしろにされてきたのではないか。確信ではありませんが、そういう疑念があります。

 現在もこうした記事を書いている時点で十分に多弁です。ただ、私はインターネットから退けば1日のうち1人で過ごしている時間が圧倒的に長いわけで、インターネット撤退戦が完了したらそのときにはだいぶ寡黙になる気がします。黙って生きよ! これは間違った理想である気もしますが、そういう道もあるよなあという思いが段々強くなってきています。