ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

『異世界美少女受肉おじさんと』王都編の主人公は誰か

 こんにちは。ひかりです。今回は『異世界美少女受肉おじさんと』(『ファ美肉』)のいわゆる王都編について、誰を主人公と見るかが結構割れそうだなと思ったので考えたことを書きます。ちなみに私は現時点で原作をサイコミ最新話まで読んでいて、本記事はそのあたりのネタバレを含みえます(もう少し言うと、アニメ第1期で描かれるであろう範囲(予想、原作第5巻まで)は既知としますが、それ以降の範囲についてはほとんど触れていません)。また、以下では大塚英志『ストーリーメーカー』の用語や考え方を特に説明なく用いています。

 まず王都編の範囲ですが、さしあたり第4巻冒頭(第41話)から第5巻後半の第68話までとしておきます。橘と神宮寺が王との謁見に臨むところから、メーポンを倒して橘が神宮寺に魅了されるところまでですね。

 王都編の主人公の候補はふたりいます。橘と神宮寺です。この作品全体をみても、このふたりはダブル主人公っぽさがあって、どちらが主人公と決めがたい感じがしますが、たとえばイカ編などは神宮寺が主人公だと思います。これに対して王都編では、ふたりのうちどちらを主人公とみても整合性がとれる気がする、というのが本記事の趣旨です。

 まず、橘を主人公とみた場合を考えます。『ストーリーメーカー』の考え方に従えば、物語の形の基本は「行って帰る」です。橘を主人公だと考えると、橘はメーポンの中という異界へと行って帰ってきました。また、こうした「行って帰る」には「欠落の回復」というテーマが重ね合わされます。橘において欠落していたのは神宮寺です。王都編の大部分を通じて橘と神宮寺は離れ離れになっていましたが、メーポン戦を経て再び一緒になります。外面的なところだけをみれば、王都編は橘からすれば、神宮寺を失ってメーポンの中へと入り、神宮寺との対決を通じてメーポンから救い出され、再び神宮寺と一緒になったという物語です。

 こうした外面的な物語と並行して、橘の内面の物語が進行します。様々な描写から、王都編における橘の内面的な欠落が神宮寺からの承認(褒められ)であったことは明らかです。そうした欠如が、メーポンの中で神宮寺に褒め倒されることで回復します。内面的には、神宮寺に褒められたことがないと感じていた橘が、騒動を経て神宮寺にめちゃくちゃ褒めてもらってその欠如を回復する、というのが橘を主人公とした王都編のあらましです。

 物語の構造上の契機や人物の役割を橘主人公でざっくり見ていくと以下のようになります。冒険への招集は姫に連れられて反乱軍に参加したことです。この意味で姫は派遣者の役割を担っています。冒険の拒絶は、橘が反乱軍キャンプから逃げ出そうとするところです。その後、橘はカーム(メイド長)によって精神干渉を受けますが、これは贈与者の第一機能(先立つはたらきかけ)にあたるでしょう。その後、橘はカームからメーポンを与えられます。これらは橘にとってプラスの出来事ではありませんが、構造的にはカームは贈与者です。一時的に橘を慰めて匿うというのも贈与者に相応しいムーヴです。次いで橘は文字通り門を越え、メーポンに乗り込み、異界へと旅立ちます。ヴィズドは助手といえなくもないでしょう。ここからは敵対者である神宮寺との戦いです。橘の外面的な目的は神宮寺を倒すことで、内面的な目的は神宮寺に褒められることです。どちらにおいても、神宮寺自身がその目的を阻害してきます。この外面的な戦いに橘は負けますが、内面的な目的は果たします。その後、神宮寺に助けられてメーポンから脱出し、神宮寺の傍に戻ります。ここで橘は神宮寺に魅了をかけられますが、これがこの冒険に際して橘が得たものでしょう。失ったものは神宮寺に対する精神的な優位とかでしょうか。

 このように、橘を主人公としてみた場合、王都編の構造はかなり綺麗に理解することができます(旅立ちまでの背景説明にあたる日常パートが長いことになりますが)。他方で、神宮寺を主人公とみても、それなりの仕方で物語の構造を取り出すことができます。

 神宮寺にとっての「行って帰る」は、城からメーポンのもとに行って帰るといったことでしょう。メーポンの中が典型的に異界っぽかったことを思うと少し地味ですが、まあ空間移動はあります。外面的に欠落していたのは橘で、橘を取り戻すという分かりやすいストーリーになります。内面的には、「男が男に嫉妬するなんてありえない」という固定観念が神宮寺の欠落にあたります。これに対して、橘との対決を通じて「もう少し正直に生きようと」したのが神宮寺にとっての成長です。

 神宮寺からみた派遣者はシュバ君だと思います。外面的な物語とあまり連動していないので微妙ですが、シュバ君が神宮寺に「悩み…聞きますよ…?」とアプローチするのが召集の場面であるように見えます。これに対して神宮寺は「悩みなどない」と答えて一旦冒険を拒絶します。その後、メーポンの襲撃があり、神宮寺はメーポンのもとへと向かう決意をします。贈与者は目立ちませんがシェンでしょう。神宮寺にワヌという移動手段を贈与してくれますし、橘と別れたあと腑抜けになっていた神宮寺の庇護者のように振る舞っていたところもあります。この旅に同行するシュバ君は助手でもあります。この後、神宮寺はメーポンとの物理的な戦いや橘との対話を経て(神宮寺の敵対者はメーポンであり、橘ではないでしょう。このあたりは橘を主人公とみたときと対照的です)、「男に嫉妬するなんてありえない」という自らの思い込みを打破し、橘を取り戻して、外面・内面両方において戦いに勝利します(こうした戦いにおいてシュバ君の果たした役割がかなり大きいのが特徴的ですが)。神宮寺は橘との関係を回復し、自分に正直な態度を手に入れましたが、以前のような橘への距離感を失います。

 このようにみると、王都編は神宮寺が主人公だと考えても十分に成り立つ構造をもっています。ただ、物語は主人公によって個別化されるものだと思うので、王都編は橘サイドと神宮寺サイドの両方の物語が重なり合ってできていると考えるのが自然でしょう。ふたつの物語がここまで違和感なく重なって調和しているのは相当すごいと思います。

 付け加えて言えば、強いてどちらがより主人公らしいかと考えると、それは橘だと思います。橘に関しては、幼少期からの神宮寺へのコンプレックス交じりの憧れがかなり丁寧に描写されていて、抱えている内面的な問題に深みがあります。これに対して、神宮寺にとって最もシリアスな問題であると予想される家庭環境の話題は王都編ではまだ前面に出ておらず、この要素は原作でもまだ回収されていません。このあたり、今後メーポンの事件に匹敵するような波乱が原作において生じ、そこにおいては神宮寺が真の主人公になるのでは、と予想されます。そして、王都編がざっくり橘の闇堕ちを神宮寺が救うストーリーであった以上、神宮寺の過去が掘り下げられる段では逆に橘が神宮寺を救うようになるのかなとも思います。

 王都編は尺も長く、描写もかなり複雑なので、もっと細かい分析は色々できると思います。特に、橘と神宮寺がダメになっている間にシュバ君を主人公とした小さな物語が展開されていたという読みは妥当な気がしますし、シュバ君がサブキャラにしてはあまりに活躍しているあたりも考えようがあるでしょう。ユグレインというキャラクターの位置づけ(とくに幼少期の神宮寺と重ねられている点)についてもいくつか指摘されるべきことがある気がします。

 それはそうと、『異世界美少女受肉おじさんと』は現在アニメ第1期が放送中で、原作もコミックアプリ「サイコミ」で週間連載中です。原作は絵がめちゃくちゃうまくてびっくりするのでアニメを観て気になった方は是非読んでみてください。

色彩検定2級受検レポ

 こんにちは。ひかりです。私は昨年11月に色彩検定3級・2級を受検して合格しました。この記事はその受検の体験記です。

色彩検定を知ったきっかけ

 色彩検定というのは色に関する知識や能力を総合的に問う検定で、私は前回の記事で述べた絵の練習中にこの検定について知りました。当時絵の練習のための教科書として使用していた『ダテ式おえかき塾』には塗りのレッスンは基本含まれていないのですが、終わりの方に色彩に関する記述が若干あります。それを読んで、もう少し詳しく色彩のことを勉強したいと思い、本屋さんに向かったところ、『キャラの魅力を最大限に引き出す!  マンガキャラ配色の教科書』という書籍を見つけたので買いました。これはいわゆる「塗り」の本ではなく、塗りに際してどのように色を選ぶとどのような印象を与えることができるかを実例に即して示している本です。また、色彩理論やPCCS(後述)に関する解説も含んでおり、今思うと色彩検定で学ぶ内容が概要的に押さえられていました。私はこれを読んで、こうした知識は体系化されていそうだし、検定試験とかもありそうだな、と思って調べてみて、色彩検定の存在を知りました。絵を描くうえで色彩の知識は欲しかったし、どうせなら試験勉強的にやった方が身につくだろうと思い、私は色彩検定を受検することに決めました。それが8月の末で、試験日は11月の中旬だったので、準備期間は2ヶ月半ほどです。

色彩検定の概要と試験勉強まわりの環境

 色彩検定には3級・2級・1級・UC級があり、私は3級・2級の併願を選びました。色彩に関する基礎知識を身につけたいということならこの2級までの受検になると思います。それぞれマークシート方式の200点満点の試験で(2級は少しだけ記述もあります)、7割くらいが合否のボーダーラインらしいです。3級と2級の関係は、英検のように2級の方が3級より全体的に難しいというよりは、出題範囲が違う感じです。3級でしかやらない内容もそこそこあるので、上の級を目指す場合でも3級の勉強から始めた方が良いと思います。1級についてはまだ勉強していないので分かりませんが、とりあえず実技試験があるのが2級までとの大きな違いで、難しさも急に上がりそうです。UC級では色のユニバーサルデザインについて知識が問われるようで、自分もスライド作成などそうした知識を求められる場面はあるので、いつか勉強してみたいと思っています。

 色彩検定の3級・2級で学ぶトピックは、ざっくり言うと色の表し方・色に関する理科っぽい話・配色に関わる色彩理論・ファッションやインテリアなどへの色彩理論の応用といったものです。最初に学ぶのは色の表し方で、3級ではPCCS、2級ではマンセル表色系という体系を学習します。ともに色を色相・彩度・明度によって体系的に表すものですが、これらについては暗記事項が多く、正直最初にやる割に一番学習負荷が高いように思います(しかし特にPCCSは覚えないとその先の学習に支障をきたすのでしょうがないのです)。それに加えて慣用色名(「茜色」などの色の名前)も覚えます。微妙な色の違いを見分けたりマイナーな色名を暗記しなければいけないのでこれも結構きついです。私はここで本番落としまくりました。理科っぽい話については、光に関する物理的な事柄や、人間がどうやって色を認識しているかといった生理学的な事柄について学びます。中学理科が少し詳しくなったような感じです。あとはザ・色彩の勉強という感じで、色の対比にはどんな種類があるかとか、それぞれの色が人間に及ぼす心理的効果とか、各配色パターンに結びつけられているイメージとかについて学習した後、そうした知識をファッションやインテリアに応用するとどうなるかといったことを学びます。

 とりあえず私は3級・2級の参考書(非公式)と公式が出している過去問を買って、しばらくは参考書の解説を読んでいました。教科書自体も公式が出していて、今思うと何で公式テキストを選ばなかったのかよく分かりませんが、非公式の参考書には練習問題や模擬試験がついていたのでそのへんはお得感があったかもしれません。ただ、出題内容についてはちょいちょい改訂があるようなので、万全を期すなら最新の公式テキストを買った方がよいと思います。自分はそれで受検直前に2級の参考書を買い直すことになりました(結果的に古いやつで問題ありませんでしたが……)。

試験勉強と受検

 準備期間は2ヶ月半あったと述べましたが、なんやかんやあって結局、試験勉強に関しては直前の追い込みがメインになってしまいました。やったのは参考書をとにかく読んで、練習問題をやり、赤シートで暗記して、参考書付属の模擬試験や実際の過去問を解くといった、まあ普通の受験勉強みたいなことです。そのほか、配色カードを買って色当てゲームをしたり、身近にあるものの色を調べたりもしましたが、こういった訓練はどうしても後回しになりました。前日には摸試や過去問で全部9割はとれていたので、まあ大丈夫だろうということで試験に臨みました。

 本番の試験自体は何事もなく、過去問と同じノリで解くことができました。受検票をバッグのどこにしまったのか分からなくなるというトラブルもありましたが(会場のビルに入ってから自分が受検するフロアに着くまでの間に失くしました。ヤバいですよね)、色検運営様は優しいのでその場で受検票を再発行していただけました。みなさまも当日受検票まわりのトラブルがあっても絶望せずに、とりあえずスタッフの方に相談してみることをおすすめします。

 本番の自己採点ではどちらの級も過去問と同じくらいの出来で、9割は超えていたのでまあ大丈夫だろうと思いました。しばらくしてWeb上で合格発表があり、その後家に合格証等が届きました。これにて私は自己PR欄に「色彩検定2級」と書けるようになりました。めでたしめでたし。

色彩検定を受けて成長した点・しなかった点

 実際に2級をとることよりも、そもそも絵を描くにあたって色彩まわりの能力を上げたいということでの受検だったので、一番気になるのはこの試験勉強を通じてそのあたりの能力がどれくらい向上したかということです。まず、当たり前ですが知識はめちゃくちゃ増えました。PCCSとかマンセルとか、こうした勉強を始めなければ名前すら知らなかったし、理科っぽい事項も案外(?)初めて知ったことが多かったです。配色用語も覚えたので、色について語るにあたってのボキャブラリが増えたと思います。こうした面での成長は、たとえば絵を描くにあたっても、自分がやりたいことを適切に言葉にして色彩設計の計画を立てていくことができるといった点で、後々有利にはたらくのではないかなと思います。

 他方で、色彩感覚が優れている人ということですぐにイメージするような、細かな色の違いを見分けるとか、効果的な配色パターンをセンス良く思いつくとか、そういった能力に関しては正直このやっつけの試験勉強ではあまり伸びませんでした。2級までの色検はほとんどが知識問題で、正直実際に色を見て解くような問題をすべて落としても、知識面が完璧ならば受かると思います。実際に色を見て解くような問題は、たとえば1色を見て色の名前を答えるとか、2色を見て対比の種類を答えるとか、いくつかの色を見て配色パターンの名前を答えるとか、そういったものなのですが、結局最後まで「落とすとしたらこのタイプの問題だな」という苦手意識が残っていました。知識問題は参考書を何周もしたり過去問を解いたりしているうちにほぼ落とさなくなっていくのですが、色の見分けは一朝一夕で能力が向上するようなものではないらしく、しかしそういう能力の向上こそ「色彩感覚の洗練!」と言ったときにはまずイメージするものであると思います。

 まとめると、色検2級までの試験勉強では、色に関する様々な知識は身についたものの、色の微妙な違いを見分けられるとか、センスのいい配色ができるようになるとか、そういった実践的な能力が一気に向上したという感じはしませんでした。後者に関しては配色カードをもっと活用したり、色当てクイズをやったり、日頃から身近なものの色彩に注意を配ったり、実際に絵を描いたりといったトレーニングを経て、徐々に成長していくものなのだと思います。しかし、色について語る基本的な言葉や色に関する科学的知識をもっていたり、配色にまつわるさまざまな概念を身につけていたりすることは、そうしたトレーニングをやるにあたって成長の効率を上げてくれるようなものであるとも思います。

おわりに

 色検受検を経た私の今の絵がどうなのかについては前回の記事をご覧になって判断していただければと思います(最後の絵が色検受検後の絵です)。何にせよ今まで馴染みのなかった分野について知識を得ることは楽しく、ある面では圧倒的成長もあったので、受検してよかったなと思っています。1級やUC級については考え中ですが、気が向いたら受検するかもしれません。

夏に90日間絵の練習をして思ったこと

 私は趣味でデジタルお絵描きをするのですが、絵を描くのはあまり得意ではなく、ずっとうまくなりたいな~と思っていました。そこで去年(2021年)の6月から、90日間集中的に絵の練習をしました。この記事ではそうした練習を経て自分がどう変化したか、また、そうした練習を通じて何を思うようになったかを書いていきます。

 90日の練習というのは『ダテ式おえかき塾 90日間で変わる画力向上講座』というテキストに基づいて行ったことです。この書籍は、主に人物キャラの描き方について、1日につき1つのテーマについて解説があり、与えられた課題を毎日こなすことで90日間での画力向上を目指すというものです*1。私はこれに従って、厳密に1日1課題こなすことを90日間続けました。1日の練習時間は1.5時間~2時間程度が多く、長いときは4時間くらいでした。

 先にビフォーアフター的な比較画像を載せるのがよいと思うのですが、この本を始めた頃はほとんど二次創作しか描いておらず、ここに載せられるちょうど良い時期のイラストがないので、練習を始めて1ヶ月経った7月初旬の絵を載せておきます。

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練習を始めて1ヶ月ごろの絵

 これに対して、練習の終盤、84日目の練習絵はこちらです。

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練習84日目の絵

 最後に、90日の練習を終えた後、さらに5ヶ月ほど経った現在の絵がこちらです。

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昨日描いた絵(現時点で最新)

 それぞれ線のラフさや塗りの程度が異なる、タイプの違う絵なので、パッと見で比較しづらいのですが、まあ最後のものが一番よく描けていると言っていいとは思います。そんなわけで、めちゃくちゃはっきりしているわけではないにせよ、成長はありました。ただ、どういう点で成長したかは分かりづらく、この記事ではそのあたりを考えてみようと思います。

 まず、絵の練習を始める前は「これを終えたら何も見んでもそらである程度はそれっぽいものが描けるようになるのかな~」と漠然と思っていましたが、何も見んでもそらで描けるもののレベルはまったく変わりませんでした。というかこれは15年前くらいから変わっていない気がします。私はどちらかというと「絵を描くにはとにかく資料を集めること!」と思っていたほうだったので、何も見ずに描くみたいなことに対して幻想は抱いていないつもりでしたが、それにしても練習しまくれば記憶に定着してそらで描けるものもある程度は出てくるだろうとは思っていました。しかし、これに関してはマジで進歩がないです。神絵師様の作画動画などを観ていると、何も見んでもスラスラある程度のものは描けるという人はどう考えても存在するので、そうした能力を望むことが不条理であるとまでは思えませんが、少なくとも自分に関しては、そうしたことを望むのは厳しいと思うようになりました。

 他方で、とにかく資料を集めまくって準備して描くということをやったときに出来上がるもののクオリティは上がったと思います。というか、上で述べた、そらで描く能力の上がらなさを見て、資料を集めることの大切さを痛感するようになりました。グーグルで検索して何となくそれっぽいものの写真を見るといったレベルではダメで、たとえば服のシワを描きたいなら、描こうとしている絵と全く同じポーズで自撮りするとか、影を描きたいなら描こうとしている絵と光源の位置を合わせるとか、とにかく絵の中の状況にぴったり合うような資料を自分で作ることが大事だと思いました。

 実際、上でアップした3つの絵のうち、最初の2つも自撮りをしたりFAガールにポーズをとらせたりして資料を見ながら描いてはいるのですが、最後のやつは準備量において大きな差があります。まず、それまでは素体用の資料と服装用の資料を別々に用意して頭の中で組み合わせるという方法をとっていましたが、最近になってそれらをできる限り統一するようになりました。すなわち、服を脱いだ状態で自撮りし、さらに全く同じポーズで服を着て自撮りするといった仕方で資料を作成するようにしました。また、着衣の自撮りの中でも、たとえば帽子をかぶった状態ととった状態などを細かく分け、差分をたくさん作りました。たとえばブラウスをスカートの中に入れたりシャツをパンツの上にかぶせたりするとき、重なっている衣服の下の方がどういう状態になっているのかは案外想像しづらいため、このような一部脱いで一部着るといった写真が重要でした。

 こうした工程の重要さを認識し、それを地道に実践するようになったのが一番の成長だと思いますが、では『ダテ式おえかき塾』でレクチャーされていた個々のノウハウについてはどうでしょうか。結局資料を集めまくるということが重要だったというのが結論なのであれば、90日間かけてお絵描き練習した成果自体は直接は活きてこなかったのでしょうか。これに関しては、90日間の練習だけで激変したわけではなかったなというのが正直な感想です。むしろ、90日間の練習によってできた下地の上で、地道に資料を集めるというスタイルに忠実に絵を描き続けることで、ちょっとずつ成長できるようになったというのが実際のところだと思います。

 『ダテ式おえかき塾』はキャラクターの棒立ち絵を描けるようになることをひとつの目標としているように見えます。棒立ちの素体を描くまでに6週かけ、髪や服もつけてとなるとさらに2週かかり、ポーズ付きの絵を描くレッスンはほとんど終盤です。この最初の8週で何をやるのかというと、キャラの身体を構成するパーツの比率をとにかく覚えるということがメインだったと思います。『ダテ式おえかき塾』に載っている作画方法はかなり細かく、私も詳細な比率を今でも覚えているわけではないのですが、最低限外してはいけないラインについてある程度感覚が身に着いたのは良かったと思います。これは私のように写真をもとに絵を描く方法をとる場合にも重要で、キャラと私とでは体型が全然違うので頭身や骨格の変換を行う必要があるわけですが、この際に絵における基本比率がわかっていると比較的スムーズに変換できる気がします。『ダテ式おえかき塾』でかなり細かく作図練習をやったことによって初めて、自撮りをもとにキャラを描くということが可能になったのだと思います。

 他方で、ポーズとか服のシワとかについては、『ダテ式おえかき塾』にも該当するページはあるのですが、この本のレッスンをやっただけで一朝一夕に身に着きはしませんでした。たとえば、腕の描き方についてはかなり詳しい作図方法が載っているのですが、腕を曲げた場合にこの作図方法をどう応用するんだろうといったことや、アングルが激しく変わった場合にはどうすればいいんだろうといったことに関しては、若干言及はあるものの、この本だけで分かる感じはしませんでした。服のシワについても、シワの種類の分類とか、シワのでき方の原理とか、色々解説はあるのですが、これだけ見ても自由に描けるようにはなりませんでした。これに関してはひたすら実物を観るしかない気がします。ただ、実物を観察するにしても、原理や押さえるべきポイントが知識として頭に入っているのとそうでないのとではかなり違うと思うので、これもまた『ダテ式おえかき塾』で勉強したことに基づいて、ようやく練習そのものが可能になったという感じだと思います。

 まとめると、『ダテ式おえかき塾』をやった90日間で目覚ましい成長があったかというとそうでもなく、しかしその90日間で覚えたことはその後の練習の効率を上げてくれたのかな、と思います。基礎的なことを本で勉強して、その後はとにかく実物を観て描きまくるという道しか私にはなさそうです。もちろんこれは個人的な体験談ですので、他の方々におかれましてはこの限りではないと思います。

 以上が『ダテ式おえかき塾』にまつわる体験レポートでしたが、以下の部分では、絵に関してその後買って良かったものをご紹介します。ひとつは『驚くほどうまくなる! マンガ背景技法 グリッドで背景を描こう』という本で、マンガにおける背景作画に関して実用的なことがかなり書かれていたと思います。それまで背景、とくに人工物にはあまり興味がなかったのですが、自分はこの本を読んで部屋とか階段とかビルとかを描くモチベがめちゃくちゃ上がりました。若干「アンチ・パース」的な思想が述べられているという特徴もありますが、通常のパースの勉強と別にバッティングするわけではないので、パースの基本的な勉強とマンガにおける実践的な作画の勉強ということで分けて考えればよいのだと思います。ちなみにパースの基本的な勉強のためには有名な『パース!』を読んでいます。

 もうひとつはスマホ三脚です。自撮り棒と三脚が一体になっているやつですね。上で言った通り、私の現在のお絵描きにおいては自撮りが重要なので、自撮り用の三脚は重宝しています。ブルートゥースで遠隔シャッターを切れるものもありますが、私は動画で撮ってあとからスクショで画像をつくっているので、この機能はいりませんでした。90cmくらいの高さがあってスマホをインカメで固定できればなんでもいいです。

 私はとことん絵を描く適正がないと思っているので、もはや絵に関してあまり高望みはしていないのですが、マンガを描くにあたってどうしてもある程度絵は描けるようになりたく、練習してきました。現状、これくらいの絵であれば、一枚絵としてのクオリティはあやしいものの、マンガに使っていいだろうとは思っています。今は物語創作の勉強をしていて、16頁くらいのオリジナル短編マンガを描くのが目標です。

*1:この本では基本的に、6~6.5頭身くらいの、萌え絵風の女性人間キャラの描き方に焦点が絞られており、人工物・背景・パース・細かい塗り方といったトピックはほとんど取り上げられていません。とにかくキャラ絵を描きたいという人向きだと思います。

インターネット家出の後日談

 ひかりです。超久しぶりに更新したので、さっき書いた記事ではこのブログでは敬体がデフォなのを忘れていました。その前の最後の記事はインターネット家出の7日目で、色々読み返していてそういえばこんなことを書いていたなと思い出したので、あれからインターネット家出がどうなったのか軽くまとめておこうと思います。

 さっきの記事で何度か言及しているように、メインでのツイッターはまだ続けています(あれからIDを変えましたが同一のアカウントです)。ただし、件のサブアカウントは消してしまいました。もう少し詳しく言います。あれから、メインアカウントのほうは比較的無害だと分かったので、すぐに復帰しました。サブのほうにも戻る気は出てきましたが、なかなか億劫で、予告していたマンガを完成させて復帰するにはそれから1ヶ月近くかかりました。このあたりの精神状態は最悪で、当時のプライベートな日記を見返すとヤバすぎてビビります。しかしなんやかんや復帰して、私のインターネット家出はめでたく幕を閉じたように思われました。しかし問題は何も解決していませんでした。インターネット家出前日談で述べたような異常精神状態にすぐに襲われました。ここから私は約半年間、こうした症状をごまかしながらアカウント運用を続けていくことになりました。しかし昨年の11月あたりで限界が来て、禁じ手だったアカウント削除に踏み切りました。ちなみにそのときに血迷ってメインのほうも消そうとしていたのですが、消そうとしたら震えが止まらなくなって泣いてしまったので思いとどまりました。消さなくて本当に良かったと思います。結局、メインは今回の騒動に関係なくて、ひたすらサブが問題だったということです。

 また、さっきの記事でも書いたように、今も創作的なことは続けています。むしろこれに関してはここ数年で一番調子が良いです。サブを消したときには絵を描くこと自体がトラウマになってしまったのではないかと危惧しましたが、それは免れたようです。サブの削除とともに二次創作全般を辞めました。今はオリキャラの絵を描いたりオリジナルの物語をつくったりしていて、これはあまり精神に悪くないです。

 サブの運用を続けていた半年間は異常不安に定期的に襲われていましたし、アカウント削除の瞬間はマジで心が壊れそうになりましたが、消してみたら割とすぐに気持ちは落ち着き、異常不安も消えました。削除から3ヶ月ほど経った今となっては精神状態はいたって穏やかです。インターネット家出シリーズでは色々書きましたが、結局問題の本質はあのサブアカウントをもっていることが私にとって負担だったというところにあり、アカウント削除がソリューションでしたがその決断にかなり時間がかかってしまったということです。今は残ったメインアカウントで楽しくインターネットをやっています。

 断っておく必要がありますが、このシリーズで何度か述べたように、この問題にはFFの方々との人間関係は関わっていません。単に私がツイッター上のキャラづくりによって勝手にメンタルを削られていただけです。また、あのサブを運用していたことが嫌な思い出だったとも思いません。作品について語ることやフォロワーと交流することは楽しかったし、全作品非公開にしてしまったものの、あのアカウントでの創作活動は自分にとって大きな糧となりました。

 まあハッピーエンドではないのですが、とりあえず問題は解決したということでよかったんじゃないでしょうか。何も言わずにアカウントを削除したり、全作品非公開にしたりして、申し訳なさやうしろめたさはなくはないのですが、それはしてはならないことではないし、何より自分にとっては必要なことだったので、しょうがないかなと思っています。これにてインターネット家出シリーズは終了です。今後はメインアカウントを中心にゆるく楽しくインターネットをやっていきたいと思います。

小説コンプレックス

 ツイッターでもちょいちょい言っているが、私は小説を読むのがものすごく苦手だ。人生で通読できた長編小説は数えるほどしかない。活字の本を読むの自体が苦手という話もあるのだが、新書やハウツーはサクサク読めることが多い。他方で小説形式の本になると比較的読みやすいとされている種類のノベルでも全然読めなくなる。

 こういうことを言うと「論説文は読めるけど小説読めない私って異端?w」という謎イキリに見えるかもしれないが、割と真面目にコンプレックスなんである。自分がフィクションとか興味ないんでというタイプの人間なら気にしなくてもよさそうだが、私はアニメやマンガなどはよく観るほうだし、物語創作的なこともやりたいと思っているので、小説の読めなさは色んなところで意識してしまう。たとえばアニメやマンガを通じて興味をもった作品の原作がラノベや小説だったとき、原作も読んでみようかなという気持ちになる。しかしほとんど挫折する。また、創作のための物語論のような本を読んでいると小説の例がいっぱい出てくる。当然引用元作品を読もうとしても失敗するし、なんなら引用文を読むこと自体にひどい困難を覚える。

 何がそんなに難しいのかというと、一言で言って、小説の文章を一読しても内容が頭に入ってこないことが多いのだ。私は英語を読むのも苦手なのだが、英文を読んでいると、知っている単語しか出てこないし文法的にも分からないところなどないはずなのに、何を言っているのか分からないという経験をすることがよくある。そういう場合、何度か読み直して落ち着いて考え直してようやく内容がとれる(いわゆる「目が滑る」現象)。それと同じようなことが日本語の小説でもよく生じる。難しい言葉が使われているわけでもなく、たとえば自室のソファでペットボトルの水を飲んでいる*1といった、それ自体理解が難しいとは思えないようなシーンの描写においても、何を言っているのか分からないということが頻繁に生じる。そのため、ちゃんと読もうとすると読書スピードがたいへん遅くなる。かといって読み飛ばそうとすると話についていけなくなる。こうして心が折れてゆき、読書に挫折する。

 さらにタチが悪いのは、私は小説が読めないくせに、小説っぽいものをいくつか書いてきたという点だ。これは本当にタチが悪い。こうしてグダグダ書いていることからも分かるように、私は文章を書くこと自体には抵抗がない。ストーリーさえつくれれば、普段の文章を書くノリで小説っぽい体裁のものはできてしまう。ただ、私は読書量が圧倒的に少ないので、そもそも小説の何たるかを分かっておらず、そのようにしてできたものは小説の形式を模した小説ならざる何かなのだと思う。

 ツイッターで言っているように、私が描きたいのは本来マンガであるが、それなのにマンガに関してはろくな完成作品がなく、曲がりなりにも形にしたものとしては小説のほうが圧倒的に多い。これは身もふたもないことを言えば、自分にとって絵を描くことよりも文章を書くことのほうがハードルが低いからだ。

 サブカル寄りの創作界隈はこの話題でよく荒れる*2。絵が描けないから小説を書くというようなことを誰かが言えば、小説ナメてんのかと誰かが怒る。絵描きは簡単に見てもらえていいよな的なことを小説を書く人が言えばやはり荒れる。要は小説はマンガの代替物ではないし、創作物としてそれが乗り越えるべきハードルもマンガとは異なるというわけだ。私もそう思う。

 しかし、事実として、ある物語の構想があったとき、私にとってはそれを小説もどきにすることのほうが、それをマンガにすることよりも容易だ。出来はともかく、単に物語の形式をしたものを何らかの形にするということが目標であるなら、私は小説を選ぶべきだろう。

 これは単に、私は小説を読むことが苦手であるけれども、書くほうに関しては、マンガを描くことに比べれば適性があるということなのだろうか。今のところそうは思わない。私は読書量が少ないので、小説における文章表現が何を目指すべきなのか分かっていない。こういう表現は素敵だなとか、こういう感じの文章を書きたいとか、そういったイメージが全然ない。私が小説もどきを書いたときにやってきたのは、別のところでつくった物語を、自分が小説っぽいと思う形式に沿って書き下すという、かなり機械的な作業であった。これに対してマンガに関しては、技術さえ足りていればやりたいと思う表現がいくらでもある。この意味で、やはり自分はマンガのほうを描くべきなんだろうと思う。それともやはり「いや曲がりなりにも完成させられる小説に対してマンガは何ひとつ完成させられないんだから小説のほうがまだ見込みあるだろ……」ということになるのだろうか。

 まとめると、私は小説が読めないことに教養コンプレックス的なものを感じていて、さらに、創作に際しては小説が読めないのに小説を書いていいのかという悩みがあるという話であった。まあ別に私が小説を書いても「自分は小説を読まないくせに!」と石を投げられるわけでもなく、単にできの悪いものができ上がるだけであるから、書くことにひどい困難を覚えないのであれば書けばよいのでは、とも思う。しかし物語のネタをいったん小説にしてしまうとマンガにするモチベが下がりそうで怖いというのもある。うーん……。

*1:これは私が例としてでっちあげたシーンで、特定の小説が念頭にあるわけではない。

*2:これは私が身をもって体験したことというよりは、ツイート検索などで人様のツイートを眺めていて感じたことである。

インターネット家出 7日目

 ついに7日目です。やったね。サブアカウントからのログアウトが先週土曜日の早朝なので、そちらに関しては丸々1週間ツイ禁に成功したことになります。メインに関しては明日の朝です。「いつでも戻ってよい」と思ってはいるのですが、何となく1週間はやり遂げたいという思いがありました。

 これまで何となくサブタイトルをつけていましたが、今日はそんなにまとまったテーマがあるわけではないので無しです。7日目の朝を迎えての心境とか昨日やったことを雑多に書いていきます。

 5.5日目の記事で25日の午前8時までならいつでも戻ってよいと取り決めましたが、今のところあんまり戻る気にはなっていません。ただ、予約ツイートが投稿されるのは何となく後味が悪いなという気がしています。もう戻らないが、予約ツイートは削除するという感じになるかもしれません。何のための取り決めだよという感じですが。サブアカウントの方は「漫画を描く」と言ってログアウトしているので、何も言わないと誠実性に欠ける感じもするのですが、まあ「そう言ってあいつは帰って来なかった……」的な感じの方が角が立たないかなという気がします。

 ツイッターをしばらくやめてみて、インターネットおままごと欲は着実に減退しているようです。やはりインターネットおままごとって体力を使うんですよね。しばらく離れてからいざあのキャラをもう一度、となると、ちょっとしんどいな、勇気がいるな、という気持ちになります。インターネットおままごと欲は、煙草を吸いたいとかギャンブルをやりたいとかに似た欲望である気がするので、人生観にもよりますが、私としてはこのまま減退してくれるなら大いに結構という思いです。

 昨日は自転車に乗りませんでした。代わりに2万歩近く歩きました。道すがら、トークスタンドというアプリを初めて使って、知らん人と1時間話しました。珍しくストゼロを買って飲みました。ダブルレモンだったかと思いますが、私は好きです。

 これで7日目に達したので、キリがよく、明日以降も更新しているかどうかは自信がありません。これからは記事を書くにしても、以前のように普通の雑記になるかもしれません。

インターネット家出 6日目――陽射しと肌

 5.5日目を昨日更新してしまったこともあり、今日は流石にネタが無く、これで毎日更新も途絶えることになるな、と一瞬思いましたが、「7日目」を見たいなと何となく思ったので更新します。半ば無理やりです。

 昨日は一昨日とほぼ似たような場所に自転車で行ってきました。国道を真っ直ぐに突っ切るだけのルートで、走行距離は往復で14kmほどです。思い出しましたが、私は国道とか大きな道路が好きなのでした。単純に、自転車に乗っていて楽なのです。道幅も広いから他の人にあまり気を遣わなくていいし、ルート取りに頭を使うこともなく、ただ前進することだけに集中できます。そのうち国道20号を行けるところまで行ってみる(高尾あたりまで?)というのも良いかもしれません。

 昨日のその時間帯は快晴で、かなり暑く、私は長袖のシャツ1枚で出かけ、腕まくりをしていました。このインターネット家出を始めるきっかけになった睡眠障害の時期には、このように太陽と同じリズムで生活をするなど考えられないことでした。日の出に少し遅れて起きて、太陽が高いうちは外で過ごし、日が暮れる前に家に帰って、太陽が沈んでいる間は眠る。こうしたリズムで生きていけたらかなり良いだろうなと思いました。私は名前に「ひかり」とあることもあり、光や明るさが好きです。一時は生活習慣の都合で夜によく散歩していましたが、やはり暗いところで長時間活動するのは気が滅入ります。

 というわけで、インターネットを脱出したらこういう生活もあるのかもなと思いました。就職したら日中はデスクワークなので日の光を浴びる機会はかなり減りそうですが。なんか、ウーバーイーツじゃないですけど、自転車で遠くに物を届けるような仕事を生業にしたいです。日中は自転車で色んなところに飛びまわって、日が暮れたら家でゆっくりしたいです。

 そんな日々に思いを馳せつつ1日を終え、ふと自分の腕を見てみると、妙に赤くなっていることに気づきました。私はこの記事内で既に伏線を張っていたので、皆様もお気づきのことと思いますが、日焼けです。もうそんな季節か、と思うとともに、これは結構ショックでした。これまでずっと太陽の光を浴びながら暮らしたいと言ってきたところなのに、いざ太陽の光を浴びるとなると日焼けしてしまうのです。そして私は肌が弱いです。日焼けなんてしようものなら肌に様々なトラブルが生じてきます。何という残酷な運命。結局私は部屋に引きこもって窓の外の明るい世界に憧れながら生きていくしかないのでしょうか。

 しかしまだ絶望することはありません。世の中には日焼け止めというものがあります。これからなるべく肌に優しく、生物にも優しいものを買いに行こうと思います。