ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

ナナとミチル、ナナとコハル

 この記事は漫画『無能なナナ』に関するものです。第7巻までのネタバレを含むので未読の方はご注意ください。

 アニメの最終話を見返していて、やっぱりナナとミチルの関係にはすれ違いというか非対称性みたいなものがあるよなあと思いました。一言で言えばナナ→ミチルの方が愛が重いんですよね。ナナにとってミチルは初めての友だちで、過去のトラウマから救ってもらった経緯もあり、本編ではそこまで描かれなかったけれど、事の成り行きによれば依存に近い関係になっていたような気がします。

 これに対して、ミチルから見たナナは数多くの愛すべき人間のうちのひとりという感じがします。もちろんミチルにとってもナナがある程度特別な人間であることは間違いが無いのですが(ヒトミと同じポジションの尊敬すべき人だということになっている)、ミチルがナナを救ったのは、ナナを特別視していたというよりは「どんな人でも助けなきゃ」という格率に従った結果だと思います。トラウマの件にもミチルはそうした気持ちで取り組んでいたでしょうし、命懸けの蘇生にしても、実はツネキチに対しても試しています。リバイバルのリスクがどれだけなのかあのときのミチルが自覚していたかは分からないけれど、下手したらツネキチのために命を投げ出していたかもしれません。まあツネキチに対して成功しなくてナナだと成功したのはナナへの想いの方が強かったというのがありそうですが、それにしてもミチルの行動の根底にあるのは無差別の愛のようなものです。

 情報に関しても非対称性があって、ミチルには裏表が無く、ナナはミチルの基本的な性格をほぼすべて知っていると言ってよい一方で、ミチルはナナの裏の顔について極端なほど何も知りません。蘇生のシーンについても、「ナナしゃんはいい人なんだから」「わたしはいい人なんかじゃない」というすれ違いがあります。「なにがあってもナナしゃんの味方です」という台詞はあるものの、ナナの殺人者としての面を知ったミチルがそれまでと同じようにナナと接したかどうかはちょっと分かりません。

 以上のような要因から、ナナとミチルの関係は、何かとナナ→ミチルという一方通行な面があると思っています。なので不安定と言えば不安定なんですよね。それでもアニメ第12話のような美しい瞬間が実現したのは色々な嘘や偶然が積み重なってのことで、ふたりの関係にはそうした儚さがありました。

 ところでナナの友だち候補としてもうひとり、三島コハルという人間がいました。ナナとコハルの関係は何かとナナ・ミチルの関係と対照的だと思います。まず、ナナ・ミチルのカラーが無邪気・純真といったものであるのに対し、ナナ・コハルはそもそも対立しており、その関係はダーティで、大人っぽいところもあります。また、上でナナ・ミチルについて述べたような非対称性がナナ・コハルにはありません。第6巻ラストでナナとコハルの友情の可能性が示唆されますが、それは一匹狼同士が手を取り合うといった感じで、どちらか一方の気持ちが重いということはありません。情報についても、コハルはナナの殺人を知った上で手を組もうとしていたし、コハルにも殺人に手を出しかねないような黒い面があることをナナは知っています。また、敵対している間にも互いのことを認め合うような描写があり、ナナ・コハルの関係を一言で表すならば「対等」という感じがします。

 こうした面について考えると、コハルと手を結べなかったことはナナにとってかなり痛手だったと思います。ミチルがナナを精神的に救い、自律した人格へと成長させたのだとすれば、そのようにして兵士であることをやめたナナが初めて自分の意志で友情を築く相手になりえたのがコハルです。ナナ自身「長いつきあいになりそうだな」と述べていたように、互いの汚い面も知った上でのふたりの友情は、それが実現していたなら悪友関係のようなものになったはずで、ある意味とても安定していたことでしょう。そのような惜しさも感じていたから、ナナも橘とモエに「つながりを切り捨てたくない」と述べたのではないでしょうか。

 というわけでミチルとコハルはどちらもナナの友だちになりうる人間でしたが、彼女らとの関係性は様々な点でコントラストを成しており、ふたりはそれぞれの仕方でナナにとって重要な人間でありえたというお話でした。そんな人間をどちらも仲良くなれそうになった端から失っていく柊ナナかわいそうすぎる。