ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

演奏者であることをやめる

 私は長いこと音楽演奏を趣味としてきたのですが、最近「演奏者」というアイデンティティをもとうとすることはやめようと思いました。今までの経歴を述べると、3歳からヴァイオリンを始め、中学時代にはピアノを習い、高校では弦楽合奏部(ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロだけからなるオーケストラの部活。当時はコントラバスはいませんでした)でリーダー的なことをやり、大学では合唱をやりました。さすがに音楽演奏と無縁な人生だったとは言えません。しかし、パフォーマーとして音楽に携わるのにはだんだんと無理を感じてきました。単純に、諸々のサークルを卒業して演奏の機会が無くなったという要因は間違いなくありますが、音楽演奏に深く関わっていた当時から、何か無理をしているなと思うことはありました。今日はそのあたりを話していきます。

 音楽演奏にキツさを感じるのは、単純に私は演奏が下手だからです。ヴァイオリンに関してはなまじ長いことやっているので、特につらいものがあります。音楽演奏というのは身体運動であり、上達するためには身体が上手く使えるようになる必要があります。ところが、私は身体の使い方が全般的に下手なのです。特に、音楽やスポーツのような、リアルタイムで進行する系のもの、リズム感を必要とするものについては殊更苦手です(スポーツで一番苦手なのはバスケです。ダンスも多分下手でしょう。空手や剣道がそこまで苦手でなかったのは、リズムに乗り続けるわけではなく止まる瞬間があるという武道の性質によるのかもしれません)。そして、身体が上手く使えないというみじめさにはかなりつらいものがあります。

 もう一つ、音楽に特有の苦手ポイントとして、音感周りの話があります。音感についてはどうしても幼少期のトレーニングが大きく影響すると思いますが、私はその点がダメでした。音楽教育自体は幼いころから受けていましたが、ピッチの悪いヴァイオリンを矯正もされずにギコギコやっていたので、むしろ音感は乱れたと思います。音感の無い人というのは、外国語学習で言うならば聴き取りができない人のようなものです。絶対音感が無いのはもちろんですが、オクターヴや完全5度といった基礎的な音程についてある程度のイメージをもつのにも相当かかりました。音感がある人と私との間には、英語の母語話者と、いつまで経っても聴き取りができるようにならない学習者のごとき差異があります。そして、音を聴き分けられないのには、外国語を聴き取れずに身体が硬直してまごつくようなつらさがあります。

 さらにつらいのは、これらの能力はある程度努力で取り返しがきくというところです。リズム感、ヴァイオリン特有のボーイングなどの動作、歌唱における姿勢や呼吸法などについては私もそれなりにトレーニングを積みました。しかしまあ、そんなに上手くはならないのです。音感に関しても、聴音の練習をして、一時はピッチ当てや音程当てをそれなりにできるようになりましたが、実践的に使える音感には程遠く、ちょっと油断するとトレーニングの成果はすぐ無に帰します。こうなると私は努力が足りない人ということで(実際そうなのですが)、音楽をやっていてつらいのは自己責任ということになります。きついです。

 別に、プロみたいに上手くなることを望んでいるわけではありません。ただ、自分で自分の音を聞いて不快にならない程度の演奏ができればいいのです。しかし、それができません。練習方法が極端におかしいということは無いと思います。これまでの人生、音楽の師や仲間には恵まれてきました。自分へ課すハードルが高すぎるということも無いです。私の演奏が多くの場合聴くに堪えないことは録音を聴けばかなり明らかだと思います。

 いや、でももうちょっとポジティヴに音楽に向き合おう、もっと上手くなれるかもしれない、と自分に言い聞かせていろいろやってきたのですが、もういいかなと思っています。演奏者として、人に感動を届けたり、新しい技術を習得したりすることはもう諦めます。端的に向いていないのです。

 それでも、私は細々と音楽に関わっています。第一に、作曲をしています。人がどう言うかは知りませんが、私は私の曲がとても好きです(身近な人からの評判はいいですが、一般の評価はそもそも多くの人に聴かれていないので分かりません)。理論の勉強も中途半端だし、繊細な音感をもつ人特有の鮮やかな和声進行やオーケストレーションといったことは望むべくもないのですけれど、私には私にしか作れない音楽があると思っています。私の作曲に対する態度は「こういう曲があってほしいと思ったけど、自分の知っている限りで存在しなかったので、自分で作った」というものです。演奏とは対極的に、作曲に関して私はかなりポジティヴです。

 さらに、私はよく家で歌を歌うし、たまにヴァイオリンやピアノも弾きます。演奏者をやめるんじゃないのか、という話ですが、簡単に言えば「無理をしない」という方針になりました。自分へのハードルを下げまくっているのです。もうクライスラーチャイコフスキーは弾きません。難しいので。「YouTubeテーマソング」を弾きます(この曲をご存じない方はYouTubeで検索してみてください)。もう三善晃の難しい曲や、リズム感の必要なポップスなどは歌いません。「YouTubeテーマソング」を歌います。こうしたイージーな演奏に関して、私は私の音がそれなりに好きです。誰に聴かせるでもなく、私は気晴らしに自分のできる範囲で音楽演奏をしています。

 難しいことはできる人がやればいいと思います。私は上手な人が難しい曲を演奏しているのを聴いて楽しみます。クラシック音楽についての深い知識も、音楽理論に精通することも、もはや求めません。私はある面で徹底的に音楽の消費者であり、自分が楽しめる範囲で音楽と関わります。そして、気が向いたときに作曲や演奏をします。