ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

超越論的なもの

 「超越論的(transzendental)」という言葉があります。カント哲学で有名な言葉らしいですが、私はなぜか昔からこの言葉を〈対立を可能にするようなものに関わる〉というような意味で使っていました。私はこの言葉の正しい使用についてそれなりに責任ある立場にあるような気がしなくもなく、その意味で、以下のようなことを述べるのは怖いのですが、寝る前に今でもよく考えることであり、何か大事なことでもある気がするので、少しまとめておきたいと思います。

 〈対立を可能にするようなものに関わる〉といっても意味が分からないと思いますので、例解します。たとえば、熱さや冷たさを感じられる主体がいたとします。ここで対立するものは(主観的な)熱さと冷たさです。そうした対立を可能にしているのは熱さや冷たさを感じる能力です。私の用法だと、熱さと冷たさの対立にとって、こうした能力が超越論的だということになります(カントはそんなこと言いません。念のため)。このポジションにあるものを「超越論的なもの」と呼びます。

 超越論的なものがあって初めて、相対的な意味での無が意味をもつようになります。たとえば、冷たさというのは熱さの欠如とも捉えられ、その意味で無サイドなわけですが、この無は熱さや冷たさを感じる能力によってはじめて意味を与えられています。この能力が無いという意味での無は、熱さの欠如としての無とは全然違うものです。

 超越論的な条件の欠如としての無をさしあたり超越論的な無と呼んでおきます。超越論的な無は、当の超越論的なものによって可能になっている対立の中では理解できないものです。ざっくりした言い方をするなら、超越論的なものに支えられて有意味性の領域があって、その外側は無意味な領域だという感じです。

 死というのもこうした超越論的な無である気がします。生はさまざまな(ひょっとしたらあらゆる)有意味性の源泉として、超越論的なものかもしれません。生の中で私は様々な無を理解できます。価値の喪失とか、他人の死とかです。しかし、そうした無に意味を与えているような生そのものの喪失は理解ができません。

 ただ、理解できないと言っても、私は超越論的な無をどこかで感じとっているようです。うまく言えないのですが、「生が様々な有意味性の源泉だ」と言えている時点で、生の内側と外側を対比できている気がするのです。この対比は、超越論的なものが可能にする対立とは異なったものです。超越論的な有と無の対立とでも呼んでおきましょう。超越論的な有と無の対立は、理解することができなくても、何というか、現にそこにあるという感じがするのです。

 私は世界消滅を願っていますが、そこで望ましいとされている無はこうした超越論的な類のものです。しかし、有サイドじゃないと有意味なことが言えないので、世界消滅の願いは有意味に表現することができません。しかしやっぱり、有るということが分かっているなら無いということも分かっているのではという気がします。有の中でしかものを言えないので、「世界消滅を願う」とはうまく言えないのですが、そうした無に接している感じはあるので、寝る前にいつも祈っています。