ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

「夏は存在しない」という感覚について

 私は昔から「夏は存在しない!」と言って回っていました。まあ夏は存在するのですが、どうも私には存在しないように思えたのです。もうちょっと言うなら、「いま夏の中にいるぞ~!」という風に思ったことが無く、「もうすぐ夏だなあ」とか「夏にはこんなことがあったなあ」みたいにしか思わないということです。

 今日炎天下の中歩いていて、上のように感じるのは案外ありふれたことなのかもしれないと思うに至りました。要は「近すぎると見えなくなる」的なやつです。「灯台下暗し」とか、「目に物を密着させていては物は見えない」とか、いろいろな言い回しにおいてこの構図は出てきます。地球に住んでいる私たちには「あ、地球だ」と思う瞬間が無い、みたいな話でもあります。夏の中にいるときは近すぎて夏が見えなくなるのです。

 ただ、上に挙げた例は実は一枚岩ではないかもしれません。「灯台下暗し」は灯台の発する光が灯台の下には届かないという話で、近くでは灯台自体がよく見えなくなるという話ではありません(あまりに巨大な灯台ならそういうこともあるかもしれませんが)。「目に物を密着させていては物は見えない」に関しては、その「物」が中間サイズの物を指すのなら、適切な距離をとればその物は見えるようになり、しかも依然として自分の近くにいます(ので近くにいると見えないというわけではありません)。夏に一番近いのは地球の例でしょう。大きすぎるものは相当距離をとらないとそれとして見えてこない。地球を見るのにちょうど良い距離は、私たちのスケールからすれば決して短いものではないのです。しっかり見えて近くでもあるといった適切な距離が存在しないという話です。

 地球の例に近い話として、東海オンエアのてつやさん(YouTuber)が提起されていた「あの遠くに見える山は本当に山なのか」という問いにまつわる話があります。あれは、遠くから見て山の形に見えるときの山と、実際に分け入ってみたときの山の印象が大きく違うということに関連する問いだと思います(てつやさんご自身は遠景の山にハリボテ感を感じていたというところもあるかもしれませんが)。山も、地球と同じく、適切な距離をとることが難しい対象のひとつです。


 夏も大きすぎるので、それとして見られるためにはある程度の距離を要求してきて、夏の中にいるときにはいわゆる夏とは全然違った形で現れてくる、というのが「夏は存在しない」という感覚を説明する理屈だと思います。しかしその場合、夏との距離や夏の大きさにあたるものって何なんでしょうか。距離は時間的な近さがそれにあたるかなという気がしますが、大きさに関しては謎です。たしかに夏は全国規模の現象ですので、その意味で大きいと言えなくはないですが、遠くから見たときに(たとえば冬から見たときに)その意味で小さく見えるわけではないので、これはどうも違う気がします。結論が出てこないので、「「夏は存在しない」という感覚はどこから来るのか」という問いが「夏の大きさとは何か」という問いに発展したということで今回の記事を締めくくらせていただきます。