ひかりちゃんの悲観的絵日記

絵日記要素はあるかもしれないしないかもしれない。

能力の高い人の義務について

 権力をもつ人にはそれ相応の義務が課せられるという話がありますが、この「権力をもつ人」を「能力の高い人」に入れ替えても似たような話が成り立つのではないか、とふと思いました。たとえば「アカハラ」という言葉がありますが、教員が「指導」と称して非常に高圧的な調子で学生を問い詰めた場合、これは学生同士の原稿検討会において学生が友人に高圧的な調子でダメ出しをすることよりは問題があるとされることが多いと思います(後者の場合も問題があるだろうという話は措いて)。ここで教員が「自分は学生と対等に議論をしているだけ。学生も異議があるなら対等にぶつかってくればいい」と言ってもそれはまあ欺瞞で、教員にはたとえば学生の修論を通すか通さないかなどに関して一定の権限が与えられているわけだから、どうしても対等な人間関係は無理なわけです。なので、教員は学生と対等な目線で話すだけでは不十分で、むしろ自分が権力者であることを自覚して、「自分の立場の人間がこういうことを言うと学生に不必要な負荷をかけてしまうな」などと配慮した上で慎重に振舞うべきだろう、というのが私が念頭に置いている話です。これから話すのはこれの「能力の高い人」版です。

 一般に、能力の高い人がコミュニティにおいてある種の権力をもちやすいということはあると思います。教員‐学生や上司‐部下のような露骨な上下関係が存在する組織でなくても、たとえば音楽サークルや、学生同士の勉強会や、果ては友人宅で集まってやるスマブラ会に至るまで、能力の高い人は何かと場を支配したり、発言力をもったりしがちです(「スマブラ」というのは任天堂という会社が出しているパーティ格闘電子ゲームのシリーズです)。この意味で、権力者に対する警句のいくつかがそのまま高能力者にあてはまっても不思議ではありません。

 そして、能力の高い人は、多少変なことを言っても見過ごされる傾向にあります。哲学における業績の華々しい研究者がツイッターで「岩波文庫を全部読まないで哲学を語るやつは全員ばか。二度と哲学に関わらないでほしい」みたいなことを言ったら、さすがに叩かれると思いますが、それでも、哲学書を全く読んだことのない人がそう言うよりかは一定の支持を得るでしょう。このことはさらに悪用できます。たとえば音楽サークルでデキる人が「この程度の音とりがすぐに出来ない人は、これはデフォルトの能力の問題とかじゃなくて、努力不足だから、練習態度を見直してほしいし、それができないなら、一緒に活動をやることはちょっと難しい」みたいなことを神妙な顔で述べたら、能力の低い人は半ば納得して自分を責めてしまうのではないでしょうか。能力の高い人は、トンデモ発言と思われないギリギリのラインを攻めることで、能力の低い人に比べてうまく人を追い詰めることができます。

 教員が学生の進路に対して重要な決定権をもっているのと同様に、能力の高い人も、その気になれば人を簡単に害せる妖刀をもっている、というのはそこまで外れてはいないと思います。冒頭の話とのパラレルが成り立つなら、このとき、能力の高い人は、能力の低い人と対等に接するだけでは不十分で、自分が高能力者であることを自覚し、「自分のような者がこういうことを言うと人に看過しがたい悪影響を与えるかもしれない」などと配慮した上で慎重に振舞うべきだろう、という話になります。能力の高い人はその分優しさや気遣いを求められるのでは、ということです。

 このように述べてきましたが、私は「道徳の重み」みたいなものを感じないタイプの人間で、かつ、「善は実在する!」と直観しているわけでもないので、上の話へのコミットメントについては微妙なところがあります。だから、「能力の高い人はその分人に優しくすべきだ」とベタには主張するわけではなく、あくまで、権力者の義務という話があるのならば高能力者の義務もあるのでは、と思いついたというくらいです。

 ただ、高能力者がその能力によって得られる地位を利用して、暴言スレスレのラインを攻めることができてしまうのは素朴に怖いなと思います。たとえば私は趣味で数学をやっていますが、仮にめっちゃ数学のできる人に「この程度のことも分かっていない人がツイッターで数学の話をしないでほしい」みたいに言われたら、数学の全然できない人にそう言われるより嫌じゃないですか。そういう高能力の横暴な人が幅を利かせるのは「教え合う」系のコミュニティの発展にとってよくないことだとも思いますし、当為の話は知りませんが、私は能力の高い人ほど優しくあってほしいと思っています。